木れ切れなるままに2 
ブログに綴った文章を掲載します。

2019.7.9 おもちゃ考 その3 「動物組み木」との出会い

 小黒三郎さんデザインの「動物組み木」に出会ったのは、学校勤務が埼玉県から名古屋へ移る直前だった。たまたま朝日新聞に連載されていた「遊びの博物誌シリーズ」のひとつが1981年1月に掲載され、そこにあった十二支の動物組み木の図面が目に留まったのだ。図面を板に貼って、電動糸のこで切り出せばパズルになるという。その頃はコピー機も身近になかったので、方眼用著作紙を持ち出し、自分で写し取ることにした。(この作業は30年たった今も続いている。)図工室に行けば電動糸のこがあるという学校条件をフルに生かして、記事に掲載されていた小黒三郎さんの著作「組み木の世界」もすぐ購入して、自分の糸のこ遍歴が始まった。ただ、分厚い板が手元に無く、当時児童机の天板が廃棄されていて、それが材料になっていた。ニス塗りのブナの合板だったが、非常に硬く糸のこの練習には手強くてもってこいだった。刃の種類や張り方などいろいろ試しながら、操作の基本がそこで練習できていたかもしれない。
 糸のこ練習が始まってまもなく名古屋に移ることになる。その前に小黒さんの個展が東京であり、勇んで出かけていったが、気後れしてお顔を拝見しただけだった。名古屋では生まれ故郷にもかかわらず、なぜか水が合わない環境にへきえきしていたが、この糸のこ練習が癒しになっていたようだ。少し慣れてくるとクラスの支援学級の子どもたちにも糸のこに挑戦させていたから、けっこう大胆に取り組んでいたようだ。これも偶然だろうが、この頃から小黒さんも名古屋で個展を開くようになり、やっとゆっくりお話ができるようになった。
 そして私もクラスでのドラマチックな出来事などを題材に、自分でも組み木デザインをしてみるようになり、小黒さんからアドバイスをいただく機会も増えて来た。少し自分の作品が貯まり始めた頃だが、小黒さんから「日本おもちゃ会議」という組織を作ろうと思うのだが、入らないかというお誘いがあった。聞けばメンバーには木工雑誌などで見かける名だたる作家たちが並んでいるではないか。とても、素人の自分がほいほいと入会できるわけもないと思ったが、その会議の発足集会が開かれ、参加することにした。そこでは熱い議論が交わされ、メンバーもおもちゃ作家だけでなく、お店の経営者、おもちゃ研究者、コレクターなど広い範囲で構成することになった。翌年には第一回のフェスティバルも開かれるということで、厚顔を覚悟でこの会議に入会することにした。その後この会は20年以上の活動を経て、おしくも解散してしまったが、自分のおもちゃ人生の大きな支えになっていたのはまちがいない。誘っていただいた小黒さんに感謝です。

2019.7.7 おもちゃ考 その2 ネフのおもちゃ

 「おもちゃのひろば」を開いて、ほぼ30年になる。その間、場所は3カ所目だが、ほとんど自宅の一部を開放してきた。はじめは何とアパートの一部屋をひろばにしていたので、つまり2軒分で生活していたことになる。さして、余裕のある家計ではなかったが、そのゆとりある空間の方を優先していたようだ。住宅街の一角にあったこのアパートは、雑木林に囲まれ、中庭では子どもたちが遅くまで遊びに興じる、まるで昭和初期のような光景が繰り広げられていた。そこに、軒下には大型の糸のこをデンと据え、おもちゃやボードゲームをたくさん並べた場所が登場したのだから、当然子どもたちのたまり場になるかと思いきや、遠慮がちに開放日にちらちらとのぞきに来るくらいだった。たぶん、わざわざおもちゃで遊ばなくても、子どもたち同士で充分興じるだけの空間だったためかもしれない。
 さて、それから毎月のようにひろばを開きながら、まずそろえたかったおもちゃがネフ社の作品。スイスに本社のあるこの会社は世界中のおもちゃ作家のあこがれでもある。創設者はクルト・ネフさんで、自らもおもちゃデザイナーだが、厳しい目でおもちゃのデザインを選択している。娘たちが小さい時は、欲しくてもなかなか手が出せなかったが、少しずつコレクションに加えていくことができている。 その中でも自慢の作品は「手回しオルゴール」。大きなドームの穴にピンを差し込んでいくと、手前の鉄琴をたたくしかけになっている。短いメロディーしかできないが、くり返し演奏ができるので子どもたちにも人気の作品だ。和音もできるので、簡単なバロックの旋律をセットしてくれたこともあった。  ネフ社の中心はやはり「積み木」。基本的に25ミリ厚を基尺にしてデザインされているので、ちがう作品でも組み合わせて遊べるところがにくい。静岡のおもちゃデザイナー相沢康夫さんの手にかかると、ネフの積み木が魔法のようにいろんな形に変身するので、そのショーを見た人はネフのとりこになってしまうといいます。私もそのひとりですが、デザインといい、色遣いといい、さわっているだけで癒されます。このおもちゃたちで遊ぶためにも、ひろばに来る価値があるかもしれません。

2019.7.7 おもちゃ考 その1

 子どもたちにいいおもちゃを提供したいと思い立ってから、40年くらいの月日が経つ。思いついた頃は木のおもちゃを扱う店も少なく、でもデパートのおもちゃ売り場に行けばカラフルなプラスチックのおもちゃであふれていた。ファミコンを始めとした電子おもちゃもそろそろ広がって来た時代だった。
 何がいいおもちゃか定義するのは難しいが、私は子どもたちの感性を豊かにして年齢を超えて遊べ、繰り返し遊ぶことができるものとぼんやり考えている。全ての木のおもちゃがこれに当てはまるわけではないが、優れた作品は木で作られたものが多いのは確かだ。
 店も少なく、値段も高いと来ては自分で作るしかないと、テキスト片手に挑戦し始めたのは、長女が生まれた頃だった。それにしても手引きノコとカナヅチくらいの大工道具で、室内用のすべり台や、散歩に使う手押し車などよくぞ作ったものだ。
 その後小黒三郎さんデザインの「動物組み木」を知りいわゆる電動糸のこの世界にどっぷりハマることになる。
 同時にぼちぼちと集めていた木のおもちゃがまとまって来たこともあり、思い切って「おもちゃのひろば」を開設して、より多くの子どもたちにいいおもちゃを提供する場づくりに取り組むことになる。子どもたちは三々五々集まり、棚に並んだおもちゃやボードゲームなどで好きな時間を過ごす。中には弁当持ちで一日過ごしていく家族もあった。操作の難しいおもちゃを得意な子が教えたり、一緒にパズルに挑戦したりと言ったほほえましい場面もたくさんあった。人間関係が薄くなっていると言われる現代に貴重な場かもしれない。
 一方電子おもちゃ類は次々と改良され子どもたちを虜にしている現状は相変わらず続いている。こうしたおもちゃを全否定しても子どもたちがそちらに引かれてしまうことは止めようがない。私にできることは、感性を豊かにする楽しい、おもしろいおもちゃもたくさんあることを伝えることだと思っている。たぶんプラスチックや電子おもちゃが一緒に並んだら、木のおもちゃを手に取る子どもは多くないだろう。だからひろばでは私がいいと思った作品を並べ、そこから選んでもらうことにしている。  さて、このひろばも30年が経ち、今後のことを考える時期に来ている。開設当初とは世の中の現状も様変わりしている。注文すれば、寸時にほしいものが手に入るご時世の中で、わざわざひろばを開いておもちゃを提供している意味があるのだろうかとふと疑問に思うこともある。
 でも、この便利すぎる世の中で、ハラハラしながら積み木を積み上げたり、風に揺られて鳴る風鈴に耳を傾けたり、ふだん忘れている感性が味わえる空間は捨てがたいと今も思っている。 
 ひろばで遊ぶだけでなく、隣の工房では自分から糸のこに向かい、厚い板と真剣な目で格闘している子どもたちがいる。付き添った親もこんな顔、見たことないと驚いている。学校や家庭では味わえない体験をしているようだ。自分自身も作品を作り続けているが、工房で難しい作品に挑戦している子どもたちを応援することにもやりがいを感じているので、もうしばらく続けていられそうだ。

2018.5.11 夏のワークショップ

 夏のワークショップが続く。手始めはアートピアの子どもワークショップこれは10回目。続いて南図書館の糸のこ教室。これは何と20年以上続いている。後半には、平和フォーラムが待っている。これは外国籍の子どもも含めたおもしろ授業で、そろそろ10回近くになるはずだ。 昨年から講師もやめ、日常フリーの身分になってから、こうしたワークショップや毎月のひろばと工房が「仕事」らしい仕事になっている。前とちがってきたと思うのは、準備に充分過ぎるくらい時間をかけられるということ。当日の活動を予想していろいろ下準備ができるということ。それまで準備しなかったわけではないが、ぶっつけ本番で何とかなるだろうと乱暴だったことも確かにあった。特に何度もくり返しているイベントになるとありがちなことだった。こちらはくり返しでも、参加する子どもには初めての体験。ていねいに準備してあげて当然でした。 その甲斐あってか、最近のワークショップはとてもうまく運んでいるはずだった。一回こけたのは、6月のおもしろ学校での「ぱたぱたづくり」。テープの付け方をマスターすれば、難なくできるおもちゃですが、その前の板作りをこりすぎたため、半分も完成しないうちに時間がきてしまった。これもばかていねいに準備したはずだったのに、時間の読みが甘かった事件でした。しかたなく、作って送ってあげるというおまけサービスになってしまいました。 その他は比較的うまくいっており、充分な準備にまさるものはないと改めて思います。昨日は南図書館のイベントを午前・午後こなしてきました。よく見る子が参加しているなと思ったら、6年間皆勤賞でした。毎年の夏を楽しみにしているし、一回も同じものなかったよと最後に記念写真も撮りました。こういう子に出会うとますます手抜きはできないなと深く感じた次第です。では平和フォーラムの準備をすることにします。

2018.1.27 健康って何だろう

 昨年4月から、仕事がフリーになった機会に、連れから進められたジムに通うことにした。もともと健康には自信があったが、定年後非常勤講師で小学校に勤めるうち、子どもとまともに遊ぶことができなくなった体に気づき、ちょっと筋トレでもしなくてはと覚悟した次第。
 週1回の筋トレとリラックスヨガの講座に参加しほぼ1年になる。内容はさほど難しくはないが、講師の指示の通りにはなかなか体のバランスがとれず、四苦八苦しながら何とか続けている。日常自転車乗り、山歩き、ガーデニングと体を動かしていない訳ではないが、筋肉のつき方はかなりばらつきがあるらしい。確かに山を歩いていても、下りでひざを痛めたり、階段で息切れしたり、鍛える必要はありそうだ。といっても今さらアスリートをめざす訳でもなく、筋肉盛り盛りもご免被りたい。ただ、日常の動きがもう少しスムースにいけばいいので、しばらくこのペースを続けていきたい。
 もうひとつ、最近学習会仲間の医師から飲酒が健康によくないレポートが報告され、日頃の酒量を考えるとかなり要注意の部類になるそうだ。しかし今酒のたしなみを断つことは逆にすごいストレスになる気がする。確かにこれまで飲み過ぎで数々の醜態を演じ、仲間の語り草にもなっているが、反省するのは朝だけで夕方にはもう忘れているのくり返しで今に至っている。
 今現在の結論としては、危険信号は頭の隅に置きつつ、おいしく飲め二日酔いにならない程度なら、個人差を信じて酒と付き合っていくつもりだ。
 実は今鼻の嗅覚が全く機能せず治療を受けている。もともと鼻炎気味ではあるが、ここまで嗅覚が鈍感になるとは思わなかった。その服薬のせいか、それまで快調だった通便が便秘になり悲痛な思いをしたことがある。薬を変えてもらい元の体調に戻るまで数日かかったが、人間どこかおかしいのが普通かもと思うようにもなった。目覚めよし、食欲よし、睡眠よし、通便よしと五体満足より、ちょっと歯が気になる、腰が痛い等々五体不満足な状態を抱えて、そんな自分の体と上手に付き合っていく気分的に「健康」な自分でいたいと思います。

2017.8.16 絵本よもやま話 その6 お話おもちゃ3

 お話全体を表現できる大掛かりな作品もいいですが、最初の「3匹のくま」のように枠の中にすっぽり収まるような作品もまた、作りたくなりました。そのきっかけはクラスでお話おもちゃを紹介する機会を作ってくれたクラスで「きつねのおきゃくさま」の郡読を聴き、その作者あまんきみこさんに子どもたちの手紙にそえて、組み木にした作品を送ったとき。ていねいなお返事をいただきましたが、その後、また枠の中にお話を収めるパターンを考え始めました。
 お話なら宮沢賢治と新美南吉だろうということで、本の中から作品をイメージした形が飛び出るようにデザインしてみました。ただ、あくまでもイメージなのでおもちゃとして遊ぶには難があります。
 さて、ここからは仮説の話になりますが、もし、これから支援学級の担任になったら、子どもたちに聴かせたい絵本を取り上げてみます。

2017.8.15 絵本よもやま話 その5 お話おもちゃ2

 そのまーちゃんを思い出しながら、新しいお話おもちゃができあがり始めました。まーちゃんはグリムやアンデルセンなどの童話が大好きで、そのストーリーをよく覚えており、気がむくと教室に立てかけてあるホワイトボードにそのストーリーを順番に描き始めます。なぜか紙に描かず、ホワイトボードが気に入っているようで、いろいろな登場人物もていねいに描くのですが、描き終わるとすぐ消して次の場面に移ってしまうので、とてももったいなく急いで写真に撮っておきました。
 たまたま職場が「くすのき学園」というとても厳しい環境で育った子どもたちの学級だったので、絵本などはしばらくお預け。とにかく子どもたちと関係を作ることだけが最優先でした。そんな折り、ふとまーちゃんのことを思い出し、お話を立体的に表現して立体の紙芝居のように遊べたらどうかなと構想しました。最初の題材は「おやゆびひめ」。まーちゃんのまねをして場面を五つに分け、場面ごとにグッズをデザインしました。場面ごとに見せることもでき、全部並べるとストーリー全体が見渡せる構成です。これに味を占め、「みにくいあひるのこ」「雪の女王」と作り、いちばん作りたかった「ちいさなおうち」に挑戦しました。このお話は絵本の中でもいちばん好きな作品で、おうちだけは前からできていましたが、全体の構想はあまりにボリュームがありすぎて、なかなか形になりませんでした。そんなとき、ふと話が広がるにつれて舞台もだんだん広がるようにしたら収まるのではと思いつき、場面ごとに高さを変えて構想してみました。静かな田舎の場面から、高層ビルに囲まれる大都会まで五段階の枠を舞台にしてまとまりました。
 このように作品は貯まってきましたが、職場の子どもたちにはじっくり見てもらう機会を作れず、自分の中だけの自己満足な作品になっていました。ところが交流していたクラスの先生にとても熱心な方がいて、学園のある子の授業をほとんど引き受けてくれていました。そこでお礼代わりもかねて、そのクラスでそれらの作品を紹介することになり、絵本を読み込みながら立体紙芝居が実現することになりました。「ちいさいおうち」では、子どもたちに交代で絵本を朗読してもらいながら、一段ずつ場面を並べて行くという構想が目の前で実現しました。これをきっかけにその後機会があるごとに作品を持ち出すということが増えてきました。

2017.8.15 絵本よもやま話 その4 お話おもちゃ1

 絵本などのお話をおもちゃにアレンジしてみようと思ったのは「3匹のクマ」の話を聞いてから。恥ずかしながらそれまで、その話を耳にしたことがなく、たまたま給食の時間に放送委員が朗読していのを聴いて、ピンと来たのです。すべて大中小の家具たち、くまさんも大中小。これはおもちゃになりそうと、それまで組み木のデザインにこだわっていたので、ひとつの枠の中から家具などを取り出すという発想でデザインしました。工夫したのは、単に切り出すのではなく、少々加工することで、人形劇のように操作して遊べるようにしたこと。これが我ながらうまくいき、クラスでもよく遊んでくれるおもちゃになりました。そして、学芸会の出し物につながることになります。続いて作ったのは「てぶくろ」。森に落ちているてぶくろに次から次と動物がもぐりこんで最後に逃げ出すというお話。てぶくろの中の円に動物の顔を収めて、それをコマにして散らばるという発想でうまくいったつもりが、後から和久洋三さんから、この話は動物がだんだん大きくなっていくところがおもしろいのに、それを無視しているときびしい批評をもらいました。あまいですね。
 3作目は「おおかみと七匹の子やぎ」。これも枠を意識してデザインしましたが、少しこりすぎて、パーツが多すぎてしまいました。おおかみのおなかに子やぎか入ってしまうところがみそかな。
 絵本とドッキングして遊べる作品は「おおきなかぶ」でしょう。読み聴かせでしっかりお話を覚えたら、いっしょに人形を取り出し、かぶにセット。全員そろったところが一気にかぶがぬけます。うけることまちがいありません。お話好きなまーちゃんはときどきひとりで取り出しては遊んでいましたが、ある時片づけないまま外に遊びに行こうとします。注意してよく見ると、みんながかぶをかこんで食事している場面にアレンジされていました。子どもには負けます。

2017.8.15 絵本よもやま話 その3 Kくんのこと

 ほとんど「ウン」くらいしか返事をしないKくんの力に驚いたのは、「スーホの白い馬」を読み聞かせてから、感想文のかわりに感動した場面を絵に描いてごらんと課題を出したとき。白い画用紙を前にしてぐっとにらむかと思ったら、太い鉛筆でなぐるように描き出し、競馬の場面、矢がささる場面、スーホのところに倒れるようにもどる場面と次から次に画用紙を要求して描き上げました。こちらも半ばあっけに取られながら、これが彼の言葉かとしっかりなっとくした次第。
 そんな話を大勢の前で紹介したのは、谷川俊太郎さんとのイベントのとき。ことばをめぐる現場の実践例を頼まれて報告しました。谷川さんのことばあそびうたも授業の中でよく使わせてもらっていましたが、その席には本物のことばあそびの実践家波瀬満子さんも参加されていたので、あえてその話を用意しました。

2017.8.15 絵本よもやま話 その2 ぐりとぐら

 支援学級で絵本がいちばん活躍したのは、ダウン症のちーくんとりえちゃんのふたりコンビの年。ほとんど話し言葉が出てこない二人はでも絵本が大好き。ちーくんはいわむらかずおのタンタンシリーズ、りえちゃんは「わたしのワンピース」がお気に入り。ほとんど毎日のように読みきかせ、あそびにつなげていました。その年は学芸会の年。二人だけの出し物はむずかしいと思ったので、そこはふだんクラスに遊びに来ている子どもたちを巻き込んで、劇団を作ることにしました。題材は「ぐりとぐら」。ふたりを主人公にして集まる動物たちを他の子に演じてもらいました。卵形の車に乗せてもらったり、ふたりもごきげんで練習していましたが、一時はあまりの騒々しさに主人公が逃げ出してしまったこともありました。子どもたちもすぐ反省してくれて何とか劇は成功。大きな思い出になりました。
 ふたりがそろって何度も要求する絵本が「もこもこもこ」。言葉の少ないふたりが声をそろえて「ぷく」とか、「プー」とか大きな声を出してくれると本当にうれしくなってしまいました。絵本に力に感心した瞬間です。五味太郎の「おじさんのつえ」も大好きで、読みながらのかんたんな振り付けに大喜びしていました。五味太郎のあそびえほんにハマり始めたのもこの頃です。

2017.7.28 絵本よもやま話 その1 出会い

 近々絵本についての講演を頼まれていることもあり、ここらで、絵本を巡る記憶をメモしておきたい。そもそも絵本を意識したのは長女が生まれた頃。まだおなかにいるうちから、いい絵本はないかと見聞きした絵本さがしに明け暮れていた。今思えば、その時代、今から40年近く前になるが、今名だたる絵本作家たちがこぞって創作絵本を出版し始めた時期とかぶっていた気がする。田島征三、林明子、五味太郎、長新太等々。週末には新しい絵本を購入するという習慣がその頃始まっていた。月刊の「こどものとも」ももちろん購読。単行本になる前の普及版が手元にあるのも、今や貴重な財産かもしれない。わが子に読み聞かせるのはもちろんだが、自分自身が絵本の世界に浸りたいという気持ちも一方で強くなっていった気がする。
 子育てと同時に支援学級の仕事も始まっていた。出だしは「ことばの教室」という言語障害の児童を対象とした通級制の学級。そこは校内に設けられており、学校内外の児童が週に何時間か通ってくる。親同伴、同室のことも多々ある。新卒で慣れない仕事なのに、いつも親に見られているというプレッシャーの中でのやりくりはよくこなせたと思う。教材にもっと絵本を生かせばよかったと今では思うが、そのときはとにかく障害になっている言語の力を何とかつけなくてはと指導優先にしばられていた。よかったのは、まるで知識がないままスタートした仕事だったが、専門のコースで勉強していた若手教員と知り合いになり、勉強会に入れてもらったこと。そこでは、チョムスキーの著作を中心に、人間が言語を獲得する過程を分析し、理論化した内容を学習していた。覚えているのは、人間はだれしも、生成文法という物を脳内に持っており、その育つ環境によってその環境に応じた文法を使う構造になっているという。だから日本人の赤ちゃんでも、アメリカで育てば自然に英語を獲得するわけで、言語の世界のおもしろさ、不思議さに気づかせてもらった記憶がある。2才前からしゃべり始めたわが子の言葉を録音する試みも試したが、とてもテープが間に合わなくなってしまって記録メモだけで妥協していた。
 彼女の絵本場面で思い出すのは、田島征三の「ふきまんぶく」を読んでいるとき、大きなふきの葉っぱの上をすべる場面で自分も絵本にのっかってすべろうとしていたこと。まさに話に入り込んでいるのですね。

2017.4.13 支援教育よもやま話 その12 交流教育について

 初めの学校で交流を断られると言う大きな壁を経て、世はむしろ逆に支援学級と通常学級の交流を積極的に進める方向になって来ました。当然と言えば当然のことですが、現場はそれほどスムーズではありませんでした。交流に出す方も迷惑をかけないだろうか、途中で戻ってこないだろうか、授業についていけるだろうか等々、心配すれば切りがありません。受け止める通常学級の方でも、そんなに特別にめんどうみれません、評価はどうする、他の子の勉強が遅れるのではと、いろいろ疑問を述べます。そんな中でこれまでの試みを振り返り、思いついたことを並べてみます。
・教科にこだわらない。普通、音楽や図工、体育などが選ばれますが、子どもに興味があれば理科でも算数でもかまわないと思います。理解できるかできないかは別にして、大切なのは同じ学年の子が同じ時間に同じ場所で過ごすことです。僕たちの仲間にはこんな子もいるんだなとみんなに認識してもらえばいいのです。
・評価はしない。できたできないの基準は設ける必要はありません。補助してあげることもあるでしょうが、その子がみんなといっしょにいることが大切なのです。 ・交流に行く行かないは子どもが決める。選択権はあくまで子どもが持ちます。いやがれば無理には行かせません。チャンスはいくらでもあります。
・行事などの交流も同様です。運動会の練習など進んで参加する子もいますが、中には練習中砂場で遊んでいる子もいます。そんなときも声がけはしますが、無理はしません。体操服に着替えただけでもよしとして、ポジションだけは確保しておいて、最悪本番に出ればいいのです。(それも無理な時もありました。)
・学芸会の時でした。その年私のクラスはダウン症のお子さん二人きり。とてもかわいい子たちでしたが、うまく話すことができません。そこで、他の子に呼びかけていっしょに劇をやってくれる子を募集しました。何と30人くらいの子が集まり劇団結成。ただ、練習は休み時間だけなのでなかなかはかどらず、ついには担任に授業時間をもらいました。ところが喜んだのは子どもたちで、勝手に遊んでしまう子も出る始末。つい説教してしまいました。そんなことを経て、二人を囲んだ劇が完成。打ち上げは家庭科室でお好み焼きパーティー。ほぼ時間にしてひと月あまりの期間でしたが、二人を囲んだミニ社会ができていました。いろんな子がいて、いろんな関わりがあってこの社会ができていること。それが実感できた日々でした。(詳しくは拙著「ほのぼの先生とちいさななかまたち」参照)  おそらく交流教育の意義もそこにあると思います。その時間を経ていろんな子がいることを確かめる。それだけでいいのでは。

2017.4.10 支援教育よもやま話 その11 卒業生のこと

 これまで、たくさんの子どもたちを卒業させてきましたが、卒業式では名前を呼ばないことを常としてきました。それは、その子が私の支援学級に所属しているのは、たまたまその子に障害があり援助する機関が必要なので所属しているのであり、本来ならみんなと同じ学級にいるはずという私なりの理由づけがあったからです。私のクラスを選んだ親たちも複雑な思いがあったようですが、大部分の方は理解していただいたと思います。名前を呼ぶのは子どもが所属している通常学級(親学級、兄弟学級など呼び方は様々)の担任。とまどいながら、これまで交流してきたんだからいいでしょうと了解してもらいました。私の立場は親も含めてあくまで子どもの援助者のひとり、大勢の人がその子に関わり卒業させるのだから、私は名前を呼ばないことにこだわったわけです。
 それがあっさりくずれたのは情短施設の10年。交流する学校はありましたが、日常はまったく隔絶された学園生活だったので、卒業式では私が名前を呼ばざるを得ませんでした。名前を呼ぶ呼ばない以前にあの子たちの将来を考えると、手離しで見送れる気分ではなかったのです。ただ、その後私にできたことは、ひろばや工房を彼らにも開放し、いつでも遊びにこられるようにしてあげることだけ。久しぶりに糸のこやらせてくれとか、自分の子どもにおもちゃを作りたいなど、しっかり成長した彼らに会うこともできました。続けてきたことの意義を感じる日々です。
 最近では卒業生のひとりが友人を集めて、月一回昼食づくりと工房体験のイベントが続いています。小学校時代を思い出しながら、大人になった視点でとつとつと語ってくれる彼らの言葉に、やってきたことはたぶんまちがいなかったかなと安堵しています。

2017.4.10 支援教育よもやま話 その10 親のこと2

情短施設で10年間子どもたちと奮闘しているうちに、この分野は発達支援法などの法整備が進み個別の指導計画が義務づけられていました。この考えについては実は当初から聞きかじっていたことでした。特に自閉症のお子さんの指導法を模索していた時にはとても指針になるものでした。時間と空間の構造を本人に分かりやすく整え、彼らが過ごしやすい環境にすること。親も含めて関係者が集まり子どもの将来の見通しがたった指導計画を共有すること。自立を目指しながらもサポート体制を確立することで選択肢を広げることなど、小さな学級の担任にとっては荷の重い理論でしたが、実践の事例を見聞きするうち、これしかないなと思っていました。
ある親とこじれたのは、この指導計画もどきがひとつの原因でした。正直に学力目標を示したら、内の子はもっとできるはずの一点ばり。伸びないのは教え方が悪い、前はもっとできたとやり方を真っ向から否定されてしまいました。この子自身は駅名をすらすら言えたり賢い面もありましたが、集団行動が苦手でちょっと気にいらないとガラス窓に突進していきます。よく大けがしなかったと思いますが、学力以前に課題をたくさん抱かえていました。今思えばその肝心のところで子どもに対する見方が全く違っていたのだと思います。たぶん私の方にもこれだけ経験してきたのだから何とか親を見返してやろうというおごりがあったかもしれません。
学校で親と教師がずれることほど子どもを不幸にすることはありません。どうしたら歩み寄れるか、答えは簡単です。教師はあくまで子どもの応援団でしかありません。一生付き合うのは親子です。そしたらその関係がうまく行くように応援するしかありません。見解が違うなら分かり合えるまでとことん話すべきでしょう。当事者同士で難しければ専門家など立場の違う人に加わってもらえばいいのです。難しいことほど大勢の力が必要なのです。
法が整備されて新しい支援教育のあり方が追及されていますが、旧態然としている現場もまだまだあるようです。こんな話が何かの役に立てば幸いです。

2017.4.10 支援教育よもやま話 その9 親のこと1

この仕事で大きなウエイトを占めるのが保護者との関係。子どもとのやりとり以上に神経を使うこともあります。幸い現役時代は親とあまりこじれたことがなく過ごせましたが、お一人だけどうしても理解してもらえない親御さんに出会ってしまいました。
そもそも私のこの仕事の出だしは「ことばの教室」という通級制の学級。校内校外から通ってくる子どもたちの言語指導をする学級です。しかし大学で言語指導について専門的に勉強したことのない私は分からないことだらけ。当然親に教えてもらうしかありません。親の言葉をヒントにせっせと教材を作り、とにかく子どもが明るくなるように心がけました。重い脳障害の子もカルタ取りでニコッとしてくれることもありました。子どもが変わってくると親も安心してくるのか、いろいろな相談を打ち明けてくれるようになりました。でも知識も経験も乏しい私は黙って聴くしかありません。今思えば、逆にそんな態度がよかったのかもしれません 。
職場が名古屋に変わりここから本当の支援教育が始まりますが、前に書いたように出だしの環境は最悪でした。その中で頼れるのは子どもたちとその親御さんたち。はじめて出会う私にあれもこれもといろいろな要求が出されましたが、これが親の本音と軽く聞き流し、徐々にものづくりを中心とした学級づくりに邁進していきました。親も始めはとまどっていましたが、調理実習などを手伝ってもらううち、子どもたちに大事な力は学力だけではないことに気づいてくれたようです。
その証拠に親子キャップを提案したら、学校からは即却下されましたが、だったら親が勝手に連れて行くので、私はたまたま出会ったことにしましょうとゲリラキャップが実現しました。(続く)

 

2017.3.37 支援教育よもやま話 その8 情短施設のこと

 支援学級の担任として長く仕事をしてきましたが、その途中で経験した情短施設(正式名称は情緒障害児短期治療施設)での10年は、それまでの自分にとっても、その後の時間から見ても、とても重たいものがありました。たまたま赴任したその場所は、児童公園の裏手にひっそりと構えられた建物。子どもたちはほぼ全員寮で生活し、毎朝どどっと教室のある建物に押し掛けてきます。いろいろな事情で家庭から切り離された子どもたちは、それぞれ心の中に苦いものを抱えています。この施設では、まず子どもたちの心を安定させ、親子関係が改善するように、心理部門、生活部門、学校部門の三者が協力して子どもたちをサポートすることになっています。
 それまでそうした子どもと接したことのない私はとまどうことばかり。ここで初めて使うことになった教科書も子どもたちは見てもくれません。うかうかすると教室を抜け出し、公園で遊んでいます。しまいには、「お前なんか帰れ」とケリが入ります。
 そんな子どもたちとどこから関係を作るかかなり悩みましたが、専門家でもない私にできることは、子どもたちの言葉を聞くこと。身体のふれあいを大事にすること。つまり、授業以外での付き合いから少しずつ関係を作っていきました。そもそも通常学級の経験がない私にうまい授業ができるわけありませんが、幸い仲間と繰り返してきたイベント「おもしろ学校ごっこ」などで、おもしろい授業ネタを知っていたので、ときどき使わせてもらいました。もうひとつ、それまでの学級経営で柱にしてきた「ものづくり」もここで生きることになります。子どもたちの状況はまるでちがいますが、本格的なものづくりはそんな子どもたちにも魅力だったようです。裏庭の竹を切り出してコースを作り、全員で「流しそうめん」を味わったり、うどん屋さんを呼んで手打ちうどんを体験したり、しまいには自分たちでメニューを考えて買い物に行き、自前の調理実習も伝統になってきました。
 もうひとつ、糸のこも活躍することになります。クラブ活動や図工の時間に糸のこの操作を教えることはもちろんですが、子どもたちとの関係を作るために、誕生日プレゼントをリクエストして、作ってほしい作品の注文を取ることにしました。机の上で遊べるドールハウスがいいとか、ドラゴンボールに出てくる竜がほしいとか、その子なりに考えたリクエストが私の創作課題になりました。かなり苦労した作品もありましたが、概ね好評で、うれしそうに持ち帰る子どもの笑顔がまぶしかったです。逆にその頃の作品がその後のワークショップや創作に生きているのでそれも感謝です。
 そんな子どもたちをさらにすごいと思ったのは、一定の期間が来ると、親元にもどるのか、養護施設に行って自活の道を歩むのか、10歳そこそこの子どもが人生を決めていくのです。その決定に直接加わるわけではないのですが、ただ応援するしかありません。
 その後施設と離れましたが、連絡の取れる子とはSNSなどで情報交換しています。親になった子もいれば、就活中の子もいます。ひょっこり工房を尋ねてくる子もいます。何の力になれるわけでもないですが、私が変わらず創作を続けていることが「先生まだやってんの」と当時の思い出とともに彼らのいい刺激になっているらしいです。

2017.3.26 支援教育よもやま話 その7 教材・教具2

 続いて創作した教具を紹介します。デザインは1993年ですから、24年前の古い作品。でも、職場が変わるたびに作ってきたので、子どもたちの反応もよかったのでしょう。  数と形の学習を兼ねたプレートパネルです。5センチ四方の木片に大きさの違う形と5までのピンを埋め込み、はまる相棒さがしを行います。単純に学習場面に使ってもいいですが、学習モードに抵抗のある子には、バラバラにしておいて、お片づけを手伝ってねと誘導したりしました。そんなのんびりしたやりとりがなつかしいです。

2017.3.24 支援教育よもやま話 その6 教材・教具1

 この仕事は目の前の子どもたちが教科書と言われます。どんなすぐれた教育方法でも、すべての子どもに通用するものはありません。これでだめならこっちでと子どもの反応を見ながら、日々教材の練り直しが続きます。その割に楽しくやってこられたのは、教材づくりそのものが楽しかったからです。おもちゃづくりと同じで、思いついた教具を子どもに合わせて微調整しながら完成した時の醍醐味は、この仕事でしか味わえません。その教具でどんな力がつくか、その分析は専門家に任せるとして、子どもが嬉々として取り組んでくれれば、それでOKです。そんな教具を作り直してみました。  数字パネルで、数字の型はめ、タイルはめ、穴あきパネル、色ごまと4種類の型はめになっています。パネルサイズは12センチ四方で、ちょうど児童机の上に並べられます。 モニターを募集しますので、興味のある方はご連絡ください。

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2017.3.19 支援教育よもやま話 その5 算数の話

 ものづくりが売りのクラス運営でしたが、教科の学習もいろいろこだわっていました。国語は、谷川俊太郎さんの詩を中心としたことばあそびに加えて、たくさんの絵本の読み聞かせ。それはやがて、木のおもちゃでお話を表現することにつながっていきます。
 算数については、「水道方式」の信望者で、これ以外の教え方は考えられませんでした。当時民間教育団体の運動が活発で文部省の強制的な指導要領に反発して、子どもたちにとって分かりやすい教え方、楽しい授業の開発がさかんに交換されていました。「水道方式」もそのひとつで、量としての数のとらえ方をタイルを補助にして身につけると、だれでも分かるようになると信じきっていました。
 クラスには、家庭の事情で学校経験が乏しい子や、身体の成長がおそいため支援学級に在籍している子もいて、だったらこの水道方式を生かして、早く通常の子に追いつけるように援助しようと考えていました。そのとき、役立ったのが「わたしたちのさんすう」というていねいな水道方式のテキスト(啓明社発行、現在は廃刊?)。有名な「わかるさんすう」(むぎ書房)をさらに分冊して、くどいほどていねいに編集されていました。ひとりずつにテキストを購入して個人指導。今思えば個別の指導計画の走りでした。子どもたちも無理なく学力がついていくので、次のテキストを楽しみにしながらがんばっていました。ただ、通常学級のペースに追いつかせようとした動機が不純でした。ていねいにやればやるほど進度は遅れていきます。あせってとばしたら元の木阿弥です。そこで、算数の目標はその子なりに力になればいい、買い物や日常生活に役立てばいいと気楽に考えることにしました。一桁の数でつまずいている子もいました。そんな子にこそ、工夫された教材・教具の出番です。タイルの考えをベースに型はめや数字のパズルなど糸のこの技術が役立ちました。別の項でまた紹介します。

2017.3.14 支援教育よもやま話 その4 機織りについて

 ものづくりでたべものの次にこだわったのが、「機織り」の授業。人間の営みで衣食住は根本も根本。それをカリキュラムに組もうというのですから、どんなクラス運営になるか想像がつくでしょうか。当時はそれをいとも簡単にこなしていました。たぶん、深く考えていなかったのかもしれません。それでも、染織についてまったく無知な私は、たまたま近くにあった工芸家集団「宇宙船地球号」をのぞき、早川ユミという染織家のお姉さん(たぶん私より若かった?)に一から教わることから始めました。羊の原毛を洗い、ほぐしながら手づくりの紡錘器で糸にしていきます。庭のシダを集めて煮だし、はじめての草木染めも教わりました。最初の織りは、横棒2本に縦糸をしかけ、いざりながら横糸を通していく原始的な織り機。ひととおり経験した後は大工さんに頼んで、高機の本式の織り機を作ってもらいました。
 教室での手始めは、大きい方がおもしろだろうということで、畳二畳分くらいの大きさの枠織り機を角材で作り、釘を何本も打って麻糸を通して縦糸の準備。横糸にしたのは、保健室でもらった古いカーテンを何色にも染めた裂き糸。子どもたちとびりびり裂きながら好きな色を選んで少しずつ織っていきました。まるで中近東の絨毯織りのような風景でしたが、ほぼ2年がかりでそれこそすてきな絨毯ができあがりました。  当時小さいものでは、おもちゃの本で知った「カード織り」にもハマっており、縦糸の組み方でいろいろな模様のベルトが織れよく紹介したものです。本格的な高機も教室に鎮座し、マフラーやマットの作品が生まれました。
 いろいろ試みてきた結果、たどりついたのは簡単な「コースター織り」。縦糸が一本おきにかわりばんこにあがる、機織りのいちばん大事なしかけが一目瞭然に分かる優れものです。最近は丸型の織り機も開発し、メニューが増えましたが、まずはこのコースター織り機で機織りの入門を味わってもらいたいとリクエストを待っています。

2017.3.12 支援教育よもやま話 その3 そばづくり

 差別待遇から数年、外の評価が高まるにつれ校内でも応援してくれる教員が増え、ものづくりにも興味を持ってくれるようになりました。ものづくりの中心はやはりたべものづくりで、支援学級だからこそできる長い時間をかけたものづくりにたくさん挑戦してきました。中でももっとも力の入ったのが「そばづくり」。理科好きな教務の勧めで、そば組合主催のそばの実観察コンクールに応募したのです。麺作りには元々関心があったので、渡りに船とすぐのっかりました。賞金も出るというおいしい話で、さっそく送られてきたそばの実をまきました。学校の花壇だけでは狭いので、市民農園で借りていた畑にもまき観察開始。けっこう順調に育ちましたが、収穫目前に台風に襲われ、結局茶碗一杯ほどの微々たる収穫。普通はここまでで観察は終わりですが、これを食べないわけにはいきません。そば粉にするには石臼がいるだろうと探しまわり、古道具屋で見つけたのは、今思えばコンクリート製の偽物。それでも取っ手をつけ直して回してみたら、臼の間から白い粉が落ちてきます。購入したそば粉も混ぜて、そば打ちにも挑戦。当然十割そばにしたので、できあがりはぶちぶちの硬いそばでしたが、一年間の苦労を噛み締めました。そんな子どもたちの正直な感想が功を奏したのか、コンクールにも入賞して賞金ももらいました。残念ながら何を買ったかは忘れてしまいました。

2017.3.11 支援教育よもやま話 その2 命の授業

 古い体質の学校だといいこともあり、昔の教材教具がごろごろ残っていました。後、これはまた別の話になりますが、当時児童の机はニス塗りの合板からデコラ張りに移行していた時期で、ニス塗りの天板の板がたくさん廃棄されていました。これを自分の糸のこの材料にして糸のこの練習プラスデザインの発想につながっていきます。  さて、教室で使ったのは理科室にあった孵卵器。当時6年生の理科の授業で、鶏の卵を孵化させ、成長の途中経過を観察する単元がありました。残酷だとかいろいろ議論があり教育課程からなくなっていずれ廃棄されるでしょうが、生命の授業としてぜひ生かしたいと、この機械を復活させました。知人に頼んで有精卵を手に入れ、温度を21度にセットしてスタート。最初は温度管理の失敗で2回目に挑戦して、ようやく21日目、卵のいくつかにヒビが入りさあ出てくるかと子どもたちと期待しましたが、調べたら孵化するのは5時間後、夜中ではありませんか。そこで、夜中に内緒で教室に忍び込み、ビデオカメラをセットして孵化を待つことにしました。  最初に出てきたのは何と真っ黒なヒヨコ。カラスかと思いましたが、れっきとしたニワトリ。あと2羽孵化して、その成長を見守ることになります。鳥小屋を作り、生みたての卵をオンドリにつつかれながらゲットするまさに生きた時間が過ごせましたが、命の授業としては未完。生き物の命をいただき、自分の命とつながっているんだという実際を教えるなら、鳥山敏子さんらが行った豚の解体授業などをモデルにニワトリをさばかなくてはなりませんが、そこまではできなく農家の方に引き取ってもらって命の授業は終了しました。

2017.3.9 支援教育よもやま話 その1 谷川俊太郎のこと

 現場から離れた生活が始まった。たまたま職場の若手が慰労会を開いてくれ、何となく昔話を語ってしまった。聞き逃してくれていい中身だが、たぶん自分の記憶もどんどん薄れていくと思うので、忘れないうちに綴っておきたいと思う。
 話題はまず、谷川俊太郎のこと。  名古屋で支援学級の担任になって数年後、仲間から谷川俊太郎を呼ぶけど、いっしょに壇上で話してもらえないかという依頼があった。あの谷川さんといっしょだなんてとんでもない思ったが、つい承諾してしまった。たまたま、クラスのことばの学習に谷川さんのことばあそびうたやことばあそびそのものを子どもたちと取り組んでいたこと、ふだんほとんど口を開かないKくんという男の子が「スーホの白い馬」を読み聞かせた後、感想の絵を描かせたら、つぎからつぎへと描き出したこと。それが彼のことばかもしれないというようなことをコメントしたと思う。
 実は最初の職場はとても古い体質の学校で、特殊学級は特殊だけでやってくれ、交流授業など他の子の迷惑になるということを露骨にいう職場で、だったら他の子がうらやまようなとびきり精選された中身にしてやろうと、めちゃ気が張っていたことを思い出します。クラスの柱を、ものづくり、ことば、からだづくりの3つにしぼり、その中にいろいろな教材を持ち込みました。そのひとつがこの谷川さんのことばあそび。壇上で同席した波瀬満子さんのレコードも使い、にぎやか国語の時間でした。職場の中では孤立しがちでしたが、周囲には自分の実践を応援してくれる仲間も増え、つい外でアピールする気分になっていたのかもしれません。外での評価が高まるにつれ、職場の中でも交流教育に賛同してくれる教員も増え、けっこうやりやすくなってきました。差別されても、差別を逆手にとって、中身を充実させることもできるとこの体験が証明しています。この続きは、またにします。

2017.3.5 学校にさよならして

 明日で、42年間の学校生活とお別れする。まだ、実感はないが、かなり大きなことになりそうな気がする。あいさつ文も考え、渡す作品もすでに早々と用意して、準備は万端だが、なぜか落ち着かない。だったらもう少し続ける選択もないこともなかったが、もういいだろうという気持ちの方が勝っていた。
 自分の中から学校の仕事が消えたとき、空いた時間に何をするか書き出してみたが、やりたいことはこれまでとほとんど変わっていなかった。そりゃそうだろう、これまでも学校の仕事をしながら、好きなことをたくさんやってきたのだから。子どもたちや職場の教員たちに直接作品などを紹介する機会はなくなるが、別の形が取れるかもしれない。しばらくは「ひろば」と「工房」を諸点にして、活動は続けることになると思う。運動不足にはなるかもしれないが、連れがジムに誘惑しているので、少し付き合うか。
 最近、「ひろば」の方の訪問が少なくさびしい時間になっている。いいおもちゃにこだわり、密かな空間として自慢できる場所だと思うが、今の親子にはそれほどインパクトがないかもしれない。子育てに質のいいものを求め、子どもの感性を磨きたいという意識はかなり特別なものかもしれない。通常の保育園さえ、なかなか入れない状況では、いいおもちゃ云々の話を持ち出しようがない。このさびしい状況が今の子育ての現状を象徴しているかもしれない。
 幸い一方の「工房」の日がにぎやかで、糸のこがフル稼働している。ひろばで遊んでいた子どもたちが自分でも作りたいというモードに育ってきたようだ。この流れを作りたかったので、続けている生き甲斐を感じている。
 学校とは離れるが、あまり状況は変わらないことが確認できたブログでした。

 

2015.5.11 日本おもちゃ会議が消える?

 5/9の総会にて活動終了の提案が通る。提案側としてはいろいろ予測して構えてきたが、なんだか拍子抜けだった。それも想定されたことかもしれない。二十数年前、小黒さんに勧められて入会してからいろいろな場面を見てきた。どうしてそこまで言い合うのだろう、みんな頑張っているのにと思ったり、まどろっこしいなと思ったり、議論に入り切れない自分がいたりした。それでもこの会議とずっと付き合って来たのは、人のつながりだった。総会の参加者も含めて、今残っている会員のほとんどは同じ気持ちかもしれない。ただ気持ちがあっても動きにはならない。手を挙げなくては何も始まらない。それをスタッフが全て背負って来たが、もう限界だろう。  杉山亮さんの言うように時代の読み、それに対応した行動、アピールの仕方等々の認識や方法のずれは確かにあったろう。でも自分も含めてスタッフとしてはそれなりに精一杯やって来たことを自画自賛したい。我儘かもしれないが、そうじゃなきゃこれまでのことがすべて無駄になってしまう。思い出を着飾る場合ではないが、次につなげるためにも、これまでの過去を大事にしたい。最後の総会に15人も集まってくれたことに、この会議を続けてきた意味があったことを思う。

2015.3.19 「サラバ」を読んで

読み始めた時が、ISの日本人人質事件のころだったこともあり、エジプトやイランが物語の舞台である内容に複雑な気持ちを抱いていた。風変わりな近寄りがたい姉と、身勝手な母親、存在の薄い父親の中で、主人公自身、存在のあいまいさ、危うさを隠れ蓑に自分を見つめ直して行く道程がすごく共感を呼ぶ。「宗教」「信仰」の扱いも作者らしい軽いノリで揶揄している。とても読後感のよい本でした。

2015.3.7 少し早めの春休み

 今年も昨日で非常勤講師の仕事が終わる。教室におじゃまして、計算や漢字でつかえている子たちへのアドバイスという一見楽な仕事で、傍目には申し訳ない気分。ただ、担任からすれば、そんな手助けがあれば多少は助かるかもと自分を慰めている。
 それにしても通常学級のペースにはなかなかなじめない。ある単元が終われば、テストをして成績評価。当然全員満点とはいかないが、そのまま進度は進む。つまづきをじっくり修正する時間はほとんどない。学年が上になるほど、つまづきをたくさん遡らないと本当の理解には近づけない。今年も何人か個別の指導時間を取ったが、結局進度から大きく離れては差ができるばかりなので、いいかげんなところで個別は打ち切り。
 せめて子どもたちにはじっくり考えたらいつか分かるし、遠慮なく友だちや先生に聞きなさいと伝えるしかなかった。
 そんな詫びたい気持ちを抱いたまま、最後の日にはそれぞれのクラスで、ちょっとした授業をさせてもらった。
 落ち着かない子の多い4年生のクラスでは、まずこの時点で子どもたちに伝えたいことを手紙にして読み聞かせた。内容はホームページにアップしてある。(http://toyhiroba.raindrop.jp/report10.html)その間、じっと耳を傾けててくれたので、少しホッとした。その後は、ひとりひとりに「タングラム」のパズルを渡した。残りの半分近くの時間、誰も飽きることなくパズルタイムになった。内容が適切なら子どもは集中するものと証明できたかもしれない。3年生のクラスにもタングラムを渡したが、パズル嫌いにならないことを願う。いちばん関わった2年生のクラスでは、これまでにも少し授業をさせてもらっていた。生活の時間に今制作中のビー玉おもちゃの紹介、花びらびゅんびゅんこまのプレゼント。算数では、1リットルの立方体模型、1センチタイルを基にした1万タイルの提示と数量理解の手助けになればと時間を作ってもらっていた。
 最後の授業では、まず40分の1サイズで作った合板恐竜を並べて、大きさ比べをしてもらった。同じサイズの人間を見せたときの歓声は心地よかった。メインは「ちいさなおうち」作品の紹介。担任に絵本を朗読してもらいながら、作品を少しずつ置いて話を進行させた。子どもらしい反応に浸りながら物語の世界に入ってもらった。おまけは工作用紙で作ったミニブーメランのプレゼント。どうも「もの」で子どもを「つる」という習慣はどこへ行っても変わらない習性になっている。
 さて、こんな仕事をいつまで続けるか、来年度あたり結論を出す時期かも。
 

2014.9.24 東田くんの本を読んで その1
 自閉症と診断された東田くんのことがBSで放映されました。彼の著作が翻訳され、外国の同じ障がいのお子さんを持つ親たちに「ようやく子どもの気持ちが理解できた」と絶賛をあびているようです。数年前に彼の本が出版された時、あまりにストレートに書かれているので、立ち読みで終わってしまいましたが、今回改めて彼の言葉を味わってみました。購入したのは「あるがままに自閉症です」「自閉症の僕が跳びはねる理由」その続編の3冊。(すべてエスコアール発行) どの本、どのページにも「そうだったのか」という言葉が並びます。かつて、クラスで何人かこの障がいを持つ子どもたちと触れ合ってきましたが、もしかしたら彼等の気持ちと正反対のことをやっていたかもしれないと自責の念にもとらわれています。ただ、だめなら無理をしないことでブレーキはかけてきたので、それで許してもらおうと思っています。 関係者にはぜひ読んでほしいですが、特に印象に残った言葉を抜き書きしますので、参考にしてください。
◯コンプレックス 自立のために訓練することは、大切だと考えています。しかし、できるだけ子どもの自尊心を傷つけないようにしてもらいたいのです。都合のいい時だけ、この子はわかっていると判断したり、何にもわかっていないと決めつけたりしないでください。
◯苦しみ 幼稚園の頃、少しずつ周りのことがわかってきました、自分がみんなと違うことに、だんだんと気づいてきたのです。その頃の僕は、気持ちをわかってもらいたかったのだと思います。・・もし、そうしてもらえたなら、抑えていた感情があふれだし、僕は暴れて泣いたでしょう。それでも、気持ちを受け止めてほしかったのです。
◯幸せだと思う瞬間 僕が幸せだと思う瞬間は、家族が幸せそうにしているのを見た時です。子どもが望んでいるのは、親の笑顔と受け止めてもらえる場所だと思います。
◯告知 告知で最も大切なことは「たとえ障害があっても、そんなことはたいした問題ではない。なぜなら、私たちはあなたを心から愛している」ということを、その子にわかってもらわなければいけないことです。・・ 
それから最後に「障がいは誰のせいでもない」そして「私たちはあなたを決して見捨てないし、あなたが成長するのを応援し続ける」と約束してあげてください。
◯できない気持ち 障害者にとってつらいのは、普通の人ができることができないことではなく、できない気持ちをわかってもらえないことではないでしょうか。
◯泣くことを受け止める 泣いている原因がわかるのと、泣いている気持ちを癒すのは別だと感じます。・・受け止めてくれる人が一人いけばいいのです。そうすれば、人は自分を見失わずに生きていくことができるのではないでしょうか。
◯選択 いちばん大切なのは、本人が楽しそうにしているかどうかです。
◯叱られる できれば、頭ごなしに叱るのではなく、愛情を込めて根気よく叱ってください。相手が自分のことをどんなふうに思っているか、僕たちも気にしています。
◯笑顔 人は笑顔にならなければ、次のことが考えられません。笑顔には、人を癒す魔法の力があると思うのです。
◯パニック パニックの時、してはいけないことをするのは、わざとやっているわけではありません。苦しさから解放されたいためにしてしまう行為です。・・パニックになったら、問題行動を起こさないように見守ってください。・・パニックのあと、いちばん落ち込むのは僕たち自身だからです。
◯通じる 相手が心を開こうとしているのか、相手も自分と同じように心を通わせたいと考えているのか、そのことを忘れていないでしょうか。・・試されているのは、自分の方かもしれないということを忘れないでください。    
 以上は「あるがままに自閉症です」より引用  
 
  

 

2014.9.1 夏休みの宿題

8月最終日、岡山のアーちゃんから電話。前に話した「じーじの昔の仕事」についてもういちど教えてとのこと。2週間くらい前だったが、そんな質問があって、つい熱く語ってしまったが、4年生の彼女にはまったく伝わってなかったようで、ガク。話の感想が宿題らしいが、電話でのやりとりでは、どだい無理だったかも。そこで、その話をブログに書いてみるね。
 じーじは、先生になったときから、ずっと小学校で、障がいのある子のクラスを受け持っていました。それからその仕事を36年間続けていたので、すごいかも。でも、続けて来られたのはその仕事が楽しかったからです。もちろん、つらいときもあったけど、楽しいことの方が多かったのでしょう。  じーじのクラスには教科書がありません。何年生に何を教えるかということも決まっていません。大事なのは、その子が何を勉強したいか、何を身につけたいか、その子や親御さんたちといっしょに考えることから始まります。もちろん、じーじにもこんなことを教えたいとか、身につけたらいいなと思うこともたくさんあります。それを子どもたちに合わせながら毎日の授業を作って行きます。つまり、自分たちで教科書を作って行くという感じです。お話が苦手な子にはことばの勉強を、計算の苦手な子には数の勉強をていねいにやります。でも、いちばんたくさんやってきたのは、いっしょにものを作ることです。じーじの得意な糸のこも練習させましたが、やっぱりたべものづくりをたくさんやりました。粉をこねて、パンやうどんを作りました。にわとりを飼って生んだ卵で料理したこともあります。そうやって、自分の手を使ってものを作ることがとても大切だと思ったからです。
 そんな勉強なら楽しいはずだよね。卒業した子に聞いても、いっしょに作ったことがとても楽しかったと言ってくれます。もしかしたら、そんな勉強は他のみんなにも大事かもしれないね。だから、今でもじーじはいっしょに作ることをいろいろなところでやっていきたいと思っています。こんどは話を分かってくれたかな。

2014.3.26 個展
はじめての東京個展が終了して3日。今日荷物が届くはずだが、まだ時差ぼけ気分。そのくらいまるで夢心地気分の五日間だった。 昨年夏から作り始めた作品群が、まるで会場に展示されるのを待っていたようにうまく収まったこと。来客は少なかったが、わざわざ足を運んでくれた面々にも感謝。ゆっくり、じっくり鑑賞してくれた時間にも感謝。まだボーが続きそうだが、こんな時間もいいだろう。