今、障害児教育→特別支援教育について語れること
  〜岡崎さんとの対談を前に、これまでを振り返る〜 
                                           2016.01.07
・そもそも現場の教員の道を選ぶ以前は、自分の受けてきた学校教育に疑問を持ち、単純に受験教育に逆らうことで、自分の目指す方向を「教育学」の中に求めていった。背景には学園闘争の波がある。
・上田薫の著作に、教育の本質に迫る見解を見いだし、著書や講義を追いかけることになる。
・そのまま行けば研究者の道もあったが、ソフトテニスにうつつを抜かし、教育への疑問もおざなりになってしまった。
・卒論を前にようやくかつての疑問符を取り戻し、メルロ・ポンティの思想とのからみで教育の現象と人間形成の過程をドッキングさせた論文を仕上げる。
・中・高の教員免許だけは取得していたが、卒業の時点でもまったく現場の教師になる考えはなく、無駄と知りながら大学院を受け、結局留年する。 ・とりあえず、クラブの先輩がいた青い鳥養護学校を訪ね見学する。このとき、もしかしたらこの種の現場ならやりがいがあるのではとひらめく。そしてアルバイトをしながら、特殊教育の免許をとるコースに邁進する。
・修了間際の付属養護でのダウン症の子らとの触れ合いでますますその思いを強くする。
・この実習で指導教官から、「あなたは子どもとは自然に付き合えるが、指導と言う点では今ひとつですね。」と言われたことが、そのままの教員生活にあてはまる。
・教員試験で受かったのが埼玉県のみで、与野市に採用され、配属されたのが通級性の「ことばの教室」。これには面食らい、言語教育について一から勉強することになる。分かりもしないのに、学芸大の専門コースで学んでいた面々とチョムスキーの言語論などを読み合ってその気になっていた。難聴児や脳障害の子の言語指導など、専門経験のない身には難しすぎたが、このときから、親や子ども本人から学ぶしかないことに気づかされた。
・自閉症児との出会いもこの頃からあり、指導論争の展開の渦中に入ることになる。幸運にも佐々木正美さんとの出会いがあり、その後の自分の学級運営の支えになる。
・6年後名古屋に異動することになり、ここから私の本格的な障害児教育が始まる。当時の名古屋は特殊教育、特殊学級という名称がまかり通っており、あそこは別物という認識が当たり前だった。
・埼玉では常識だった交流教育とか共同学習、あるいは普通学級に障害児を入学させる運動もあったが、ここではそれは全く異国の話だった。
・埼玉方式が通用しないことを思い知らされたが、職場の理解者を少しずつ増やしながら、自分なりの学級運営を形作っていった。
・その手本にしたのが、当時の八王子養護学校の実践。ものづくりを中心に、原点から見直す内容を子どもとダイナミックに取り組む実践には目を見張るものがあった。そのためにはまず自分自身が体験しなければならず、機織り、パン作り、草木染めと自分のエリアを広げていった。
・八王子養護では算数教育でも遠山啓さんの水道方式を取り入れ、教具もほとんど手作りで工夫されていた。
・自分のクラス運営の柱の中心を「ものづくり」にしたのは必然であった。そして、「かず・ことば・からだ」を周囲に巡らし、カリキュラムの骨幹ができ上がってきた。
・毎年子どもたちの何人かは入れ替わるので、細かい部分の手直しはその都度行ったが、大きな柱は一貫してこの四本を元に運営してきた。カリキュラムが手作りである以上、既成の教材・教具がそのまま使えることはまれで、子どもに合わせた教材・教具づくりも一貫して続くことになる。
・その柱の方向の大きな転機になったのは「くすのき学園」に赴任してから。情緒障害児短期治療施設というこの学園では、療に住む子どもたちの心理治療部門と学校教育部門が共同で彼等のフォローを行う。いずれ親元や地元の学校の戻ることになる子どもたちに必要なのは心の安定と基礎学力。ここで初めて通常学級のカリキュラムを知り、教科書を使うことになる。
 しかし、当の子どもたちは家庭からはじき出された身。教科書以前の心身の問題が山積み。形だけ授業をしても,子どもの心中は別にあることが見え見え。大人への不信感も根強い。
 そんな子たちとの付き合いはいろいろな意味ですごい試練だった。基礎学力はつけてやりたいが、この子たちにとって学力って意味があるのかと悩み、楽しいことをやって現実のつらさを忘れさせてもやりたいとも考え、それまで柱にしていた内容は一時棚上げになってしまった。
 自分にとっても辛い日々が続いたが、とにかく心がけたのは子どもたちとの人間関係。万引きや犯罪もどきのことを繰り返す子もいたが、とにかく味方のひとりだからという姿勢だけは保つようにしてきた。ここで、おもちゃづくりで培ってきた技が生きた。子どもたちの誕生日にはリクエストされたプレゼントを手づくりで渡し、その関係づくりに役立てた。また、慣れるにつれ、これまで実践してきた「ものづくり」のいくつかも取り入れ、いわゆる『おもしろい』授業をたくさん持ち込んだ。つまりこれまでのエッセンスがここでも生きることになった。
・この頃巷では特別支援教育の施行が始まる話が持ち上がり、時には障害児学級はなくなり、全員地元の学級に行くことになるかもしれないということまでまことしやかに噂されていた。幸か不幸か「くすのき学園」というある意味特殊な環境にいたため、日常のやりくりで精一杯だったので、逆に噂に振り回されることもなかった。
・自分の学級経営をどうするかを考える時に、「ものづくり」を柱に形作っていったわけだが、もうひとつ、佐々木正美さんの主催する「自閉症児の教育」を考える研修会にもずっと付き合ってきた。そこでは「個別の指導計画」が提唱され、学校だけでなく未就学時代から卒業後まで見通した計画を、保護者も含めたその子に関わるいろいろな分野のメンバーが集まり、その計画を練るチームが用意されていた。途中からノースカロライナで実践されているTEACHプログラムも紹介され、地域ぐるみでその計画が実践されていることを知る。そして、その子の生活する教室環境や一日の生活の流れもその子に分かりやすくするいわゆる「構造化」の理論も提唱されていた。その根本はその子の立場になって計画を用意するということだったと思う。そんな実践に引かれながら、自分の小さなエリアでやれることはとても限られていたが、いつも頭の片隅にはあった。
・特別支援教育が施行されるとき、もしかしたら、これまで自分が学んできた「個別の指導計画」や「構造化」に基づいた実践が公に提唱されるのではと期待したが、現実には以前とどこが変わったのかよく分からない状況だった。確かに交流は当たり前のこととして実現し教員定数も条件はよくなったが、教育内容はほとんど変わっていない。親の声が大きくなったくらいか。この分野がこれからどうなっていくか、若い教師たちに期待したいが、、、。

編集部からの質問

・今まで、どんなことを心がけて特別支援教育を担当してきたか。
 自分はあくまで、助っ人。彼が生きやすくするためのお手伝いをするという立場。親には言いにくいが、今のままでもいいじゃないかとそこを出発点にしてきた。
 学校の中にある支援学級は社会のモデルと考え、分けられてしまったクラスの子と健常児と言われるその他の子とのつなぎ役になろうとしてきた。いっしょに授業したり、行事に取り組んだり、いろいろな機会を探ってきた。
 この子たちはものすごく正直で、楽しいこと、好きなことは何度でもしたがる。何をどう教えるかということも、まずこの子たちがバロメーターになる。  自分がやってみたいことと子どもたちがしたいことを授業内容の中に取り入れる。親からの要望も含めて。

・困ったこと。子どものことで、親のことで、同僚のことで
子ども まずは困っているのは子ども自身。それは置いておいて、すぐ学校から脱走したり、車上ねらいをやめなかったり、すぐパニッを起こして毎日のようにガラスを割ったり、自分の範疇ではどうにもならなかった子どもたちも確かにいた。
親 子どもの現実を認めようとせず、うちの子はもっとできるはずだ、身に付かないのはやり方、教え方が悪いせいだと決めつける方。
  専門知識に固執してこのやり方をしてくれと強要してくる方。
同僚 交流は迷惑だ、他の子の勉強が遅れると露骨に言う方 
 手当が出ているのだから、自分のところで面倒を見ろと言う方 昔はそんな方がいたのです。

・特別支援教育で「望ましい教員象」ってなんだろう。
 専門知識、最新知識も大切だが、この分野、昨日の説が明日覆されることもままあるので、過信しないこと。答えは常に目の前の子どもが持っている。あるやり方でうまく行かなければ、別のやり方を試す柔軟性が必要。どの子にも有用な理論などないと知ること。

・親はどんなことに気をつけて特別支援学級の教員と付き合ったらいいか。  わが子の客観的な側面を語ってくれると教員の言葉を冷静に受け止める。子どもの成長のための共同協力者ととらえる。  対立したら、両親そろって面と向かう。父親の力はこんなとき大きい。

・その他