パパもお父さん

 このごろ、父親の役割がよく話題にのぼる。それほど
今の家庭の中で父親のあり方に何か欠けているものがあり
それが子どもの成長にとって問題化してきているらしい。
 ただ、数年前のウーマンリブのかけ声がすっかり鳴りを
ひそめ、急に「父親」がクローズアップされてきた背景を
考えると、いろんな受け止め方があるようだ。例えば、今
の世の中がどこに向かうかわからなくなり、むしろ強力な
リーダーシップを望む少々黄なくさい声、又不景気だと言
われながら、一般には消費者大国で誰もがせめてこれくら
いはと、金銭的に落ち込むことを極度に嫌う風潮、かとい
って決して気持ちのゆとりがあるわけでなく、いつもお金
に追われている状態。こんな大きな時代の流れが、やっぱ
り家庭や父親の存在へもかなり影響しているのではないか
と思う。いささか、大げさになったので、二年前から父親
の仲間入りをしたわが身をふりかえって「父親」のあり
方を考えてみたい。

 さて、三人家族になり、子どもの方は急速に勢力をのば
すにつれ、親はかなり押され気味。保育所通いも定着し確
実に成長してくるわが子を見ると、いいにつけ悪いにつけ、
親のエキスをすっている。目つき、笑い方、ことば遣い、
生き方、ものおじする態度、おべっか、たべもの等々。
その、どこか見覚えのある姿を見ながら、その影響の大き
さに親として考えさせられてしまう。例えばこんなことが
あった。
 「サトのうち、いっぱいおもちゃがあるんだよ。いっぱ
い本があるんだよ。」と、ひとり言をいって遊んでいた。
こんなことを言い聞かせた覚えはないが、きっと親である
自分は、物を与えてやることで、子どもの世話をしている
気でいて、いつのまにか娘にもその気を植えつけていたよ
うだ。このごろようやく子どもが本当に喜んだり期待して
いることは、中身や形よりいっしょにいてくれることだっ
たり、相手になってくれる時間こそまず必要なことが分か
ってきた。だから、どんぐりでも紙切れでもすてきなおも
ちゃになるし、かえっていつまでも大事にしてくれるもの
なのだ。
 どうやら、せめてわが子にいいものを、という発想がそ
もそもこの物の豊かさ優先の世の中では誤っていたのかも
しれない。だれでも手に入り、だれとでもあそべるものや
だれとでもあそべる気持ちを育てること、近所にガキ大将
のいない今日、大人がそんな手本を示す役割を持っている
ようだ。
 また、両親とも仕事を持っているため、時として父親が
母親みたいなことをしたり、その逆もある。そんな姿を見
て育つ子どもは、おそらく私たちがいだく親のイメージと
はかなり異なっているだろう。それはそれでいいと思う。
あえて「○○らしく」したくない。ただ、問題は、子ども
の成長とのかかわりだ。仕事をすればお金が入る。しかし、
時間がとられ、体も疲れる。だから家事は電化され、イン
スタント化され、テレビで疲れをいやすことになる。あと
は寝るだけ。たしかに一緒にいるにはちがいないが、これ
ではあまりに子どもの出番がない。生活から身につけるも
のといったら、スイッチを押すことだけだったりする。
 子どもの成長を願わない親はいないが、ともすると時間
に流されてしまい、その時その時に身につけさせておかな
ければならない、ことばや態度、遊び、仕事やお手伝い、
役割などを見失いがちになってしまう。
 たしかに時代の文化を吸収することも必要だが、テレビ
を見ても、町に出ても、あやしげなお子様用のメニューが
あふれるばかりにある。その中から、子どもの成長に本当
に必要なものを見つけるのは容易なことではない。しかし、
案外こういう作業が「父親」の役割のように思う。
 まだところかまわずおもらしする娘を見て、先のことば
かり期待し、本やおもちゃを買い与えすぎ、消化不良を起
こさせていた気がする。
 かつて兄弟の多かった頃、
びしょびょのシーツを力を
合わせてしぼったり、お下
がりのおもちゃでしぶしぶ
遊んだりした思いの中にも、
今の時代にはない大切なも
のがあったように思う。物
がなければないで、子ども
は本来工夫して頭を働かせるものなのだ。世の中全体がむ
しろ子どもにマイナスの環境づくりをしている以上、子ど
もたちにもっと欠乏させ、自分の頭で考えだす機会を家庭
や学校そして 隣近所の地域でつくっていかなければと思う。

               1979年度 PTA文集より
                  (当時 29歳)