はぐくみ はぐくまれ

1.テレビっ子
 私は小学校5年まで名古屋で育った。名古屋でも東の
はずれにあったので、まだのんびりした環境だった。学
校のことで思い出すのは、廃車になった市電の中で勉強
したこと、給食が始まり、あの脱脂粉乳のにおいに悩ま
されたこと、母子寮からきている子どもとどうしても友
だちになれなかったことなど。ぼちぼちはやりだした塾
は少し行ってやめてしまった。
 同じ頃、月刊にかわり、週刊マンガが登場、白黒テレ
ビも全盛をむかえていた。家にはまだテレビがなく、土
曜日の夕食が終わると、隣の家に見に行ったものだ。マ
ンガ本も家では買ってくれず、近所の家の押し入れにも
ぐり込んで読みふけったり、塾の帰り「立ち読み」を
日課にしていた。
 今ほど児童文学のすぐれた作品が出ていなかったこ
ともあり、読書についていえば、いわゆる世界名作もの
をしぶしぶ開いていたくらいだ。
 その後テレビは白黒からカラーに移り、家の中で一人
前の席を占めるようになるわけだが、反面見たい番組が
減ってきた気がする。むしろ、見せられていく傾向が強
くなり、消せばいいのについすわりこんでしまう。しま
いにはチャンネル争いだけが家族の話題になるくらいお
かしな状態だった。
 現在、再びわが家にはテレビを置いていない。たまに
どこかで見かけると、技術的にはすばらしく進歩してい
るが、ぜひとも見ておきたいと思うものが、きわめて少
ない。何かはやると、すぐ似たものが登場したり、ぶつ
ける番組ができたりする。これでは子どもに「えらぶ力」
がつくわけない。
 マンガにしても、テレビにしても、学校の勉強とは比
べものにならない魅力をもっている。大人はそのことを
充分承知のはず。だからよけいにこれをただの流行の商
品にしないでほしいものだ。影響は大きい。すぐ明日の
行動にむすびついてしまう。
 面白いものは面白いでよい。そのかわり、さがせば他
にも感動的で、いつまでも記憶に残る作品が多くあるこ
とを伝えたいと思う。やがて成長したとき、自分から文
学や映像の世界を求めていけるためにも。

2.おもちゃをめぐって
 20年前子どもだった私たちは、テレビをはじめ、現
代とそのまま繋がる文化のスタート点にいた気がする。
しかし、まだまわりには空き地があり、ヤブや原っぱも
あった。プラモデルも作ったが、笹舟や竹とんぼも作っ
た。風呂敷をかぶって鞍馬天狗や月光仮面のマネもした。
机の引き出しにはメンコやビー玉がぎっしり。考えてみ
ると、あの頃のあそびには、古いものと新しいものがう
まく共存していた気がする。
 今は確かに貧しさは見当たらない。でも、お金のない
貧しさとはちがう何かがただよっている。コレクション
だけの消しゴムおもちゃ、ひとりで遊ぶミニゲーム、小
学生も女子高生も同じイラストのバック、他の子とちが
うものを求めないで、同じものを持たないことに「みじ
めさ」を感じるようだ。
 かつては、子どもが集まれば、何がなくても遊びが成
り立ち、暗くなるまで夢中になったものだ。しかし、広
場がなくなり、自動車に占領された道路では、大勢で遊
ぶことが不可能になってしまった。だからどこかの家に
集まっても、手持ちゲームを各自やるか、それぞれコミ
ックを読んでサヨナラ。これでは友だちは育たない。
 幼児のおもちゃも変わってきた。デパートには大人も
感心するようなすばらしい玩具が並んでいる。精巧なロ
ボット、しゃべる人形、奇抜なゲーム。玩具では一流国
らしいが、はたして使う子どものことがどこまで考えら
れているかあやしい。値段は高いがドイツのように、木
を切り抜いただけの動物や、積み木のように組み立てる
単純な家がどうしてないのだろう。何年でも何人とでも
遊べるおもちゃがほしい。
 かくいうわが家の押し入れにも、めったに遊ばないお
もちゃが積んである。それに囲まれて生活している子ど
もらは、ますます個人趣味的になり、あきっぽくなり、
物を大事にしないことに繋がっていく気がする。
 財布のひもを占め直しながら、鈍いこの親は、子ども
にとって大事なことは、まず何と言っても、他の子と仲
良く遊べることではないかと、ようやく気づく。経験の
浅い子どもたちが、自分らのイメージで作り上げる作品
のすばらしさ。絵にしても、積み木やブロックにしても
そこはもう大人が入り込めない「鏡の国」。未知とか未
完成が子どもの心を写し出すのなら、大人のよけいな干
渉はもういらない。

3.親々
 最近言われるダメオヤジ論に、私自身そのとおりの父
親だなと
思いつつ、でもそんなに親に矢をむけるなよと
あえて言いたい。
 べつに、子育ての責任から逃げるわけではないが、誰
も自分の子どもを悪くしようと思って育てるわけがない。
むしろ、このごろ家庭教育見直しの風調に釈然としない
ものを感じる。ここにも書いたように、今の子どもたち
が生活している空間が、そもそもまともに育ちにくく変
質してしまった現実がある。親よりもマスコミの影響が
強いこの世の中では、よほどテコ入れをしないと、子ど
もに夢や希望を持って将来を送らせることが難しいと思
う。「大人になんかなりたくない」という子が大勢いる
ことを私たちはどうとらえたらいいのだろう。
 私たちの育ってきた世代には、戦争もなく、公害も安
保もなかばよそ事ですまされてきた。本業の勉強さえし
ていれば、人の命や平和を語らなくても文句を言われる
ことがなかった。寒い冬に熟れたトマトが食卓に並んで
も、何の疑問を持たず生活していた。しかし自分の胃に
は甘いコーラやファンタが残っていても、害 があると知
って子どもに飲ませるわけにはいかない。こんなに物が
あふれてくると、親も何が何だか分からなくなる。どう
せという刹那的な気分にもなって
くる。でも、私たちが親になって
ちきた跡を振り返ると、今の子ど
もが問題を起こすような状況をつ
くりあげてきたことに気づく。そ
の親にできることは、もう一度今
の生活の仕方、生き方を掘り起こ
し、子どもが育つのに住みよい環境や世の中がとりもど
せるように目をむけることしかない。
 部屋中粉だらけにして、うどんと小麦粘土をいっしょ
に作りながら、思いつくことを始めたいと思う。

         1980年度 PTA文集より
                (当時 30歳)