ある「情短施設」から見た特別支援教育の現状             

 (注)「情短施設」とは情緒障害児短期治療施設の略。現在(平成19年7月)全国に31ヶ所
設置され、不登校、集団不適応、神経症的習癖などの問題を持つ情緒障害児を入所、あ
るいは保護者のもとから通所させて、治療・生活・学校の3部門が連携をとりながら治療
と教育に当たっている。児童相談所とも連携し、一時保護所等も含めた総合施設になっている。

はじめに  

 この施設には十年近く勤めたが、冷静に日々の出来事を記録として残そうにも、心労
が大きく、また早く気持ちを切り替えたいこともあり、その記録はかなり途切れがちに
なっている。そんな記録だが、日々の出来事を振り返ると、子どもたちとのやりとりか
ら教師や大人の役割、そして現在多くの学校で進められている特別支援教育のあり方に
も何か一石を投じるものがあるような気がする。  小学生、中学生ともほぼ二十人前後
の子どもたちは、学校のすぐ隣に面した生活寮から通ってくる。中には親元から通って
くる子もいるが、親との関係がうまく行かずに来ている子がほとんどなので、大部分の
子には家庭は遠い存在になっている。この施設は児童養護施設とは違い、生活する寮と
ともに、心理治療を受ける場と、学校教育を受ける場の三者が保証されている。子ども
たちはここでとりあえず身の安全を保障され、ゆっくりと自分を振り返る時間が与えら
れる。

 これまでの体験を振り返ると、こちらのエネルギーをとことん吸い取られるような彼
らの持つパワーは何なのだろうかと思う。自分自身が精神のコントロールを失いかねな
いこともある。虐待、放任、愛着障害と、親子関係の歪みの中で育った、本人にも分か
らないまま身に付いてしまったその何かに我々ももろにさらされることになる。その歪
みをどう修正するか、修正できるかは施設全体の役割かもしれない。

学校の役割は  

 これまで多くの子どもたちと接してきたが、どの子も一筋縄ではいかず、「バカ,死
ね」と、どうしてこんなに憎たらしいことばかり言うのかと、自分の穏やかな性格がみ
るみる壊される場面がたくさんあった。しかし、それぞれのカルテをひもとけば、親か
らの冷たい仕打ちや暴力にさらされてきた子も多く、子どもたちが大人への不信感でこ
り固まっている背景が突きつけられる。ただ、背景を知ったからと言って問題の解決に
はならず、日々の学校でのやりとりは一から作り上げるしかない。

 本来学校の目的としては遅れている学習を補ってやり、元いた地元の学校へ早く戻れ
るように少しでも勉強の自信をつけてやりたいと思っても、現実の子どもたちはそこま
で気持ちの整理ができておらず、甘えを求めてくるか、逆にかまわないでほしいという
信号を出す子もいる。そんな中で明日の授業を想定して準備するのだから、複雑な心境
にならざるを得ない。

 ここの子どもたちはそれぞれいろいろな事情があるが、どの子にも言えるのは愛情に
飢えていること。そして、その愛情の求め方を知らない子が多い。時には暴力で自分に
注目させようとしたり、しつこくべたべたを要求してきたり、いつまでもすねて床にふ
せていることもある。その子に応じた教材の準備もたいへんだが、むしろ、そうした日
々の子どもたちが訴えてくるものを受け止めることがまず要求される。しかし、それに
はどうしても大人の手が足らない。「ちょっと待ってて」とか「後でね」という言葉が
通じない子が多く、その言葉だけで切れた行動をとる子もいる。ところが、寮も学校も
大人の定数が決められており、ひとりひとりにじっくり関わるゆとりがほとんどない。

 通常の学級でもはみ出し、学習意欲をなくし、自信のかけらもない彼らに「やればで
きるじゃないか」というメッセージを送りたい。そのためには「このやり方でやってご
らん」とこちらの指示を聞いてもらわなければ何も始まらない。学習から逃げ出そうと
する彼らをこちらに向けるにはまず子どもとの関係づくりから始めるしかない。  好き
なブロック遊びにつきあい、ホラービデオにもつきあい、芸能人の話題など会話として
少しでも成り立つ量を増やしつつ、そうした関係作りを経て、ようやく学習につなげる
ことができる。

 そんなきつい条件の職場だが、その大変さの中にもしかしたら大事なことがあるかも
しれない。ここでの日誌を振り返って学校の役割を探ってみたい。

日誌から見えてくること

○月○日 ようやく、ほぼ二ヶ月のクラスづくりが終わる。学習も全く乗らないか
と思いきや、遊びやちょっとした問いかけでグッと集中するときもあり、こちらの姿勢
次第かなと痛感する。5月後半から追いかけっこが定着になり、追いかけてもらうこと
が何より楽しいようだ。
○月○日 先日の図工でまたある子が荒れ、画用紙はビリビリ。こちらも「かたい」流
れになっていたことも原因で、どの教科もそうだが、やんわりとした導入で、どこかで
ねらいと引っかかればいいくらいの楽な気持ちが必要だ。
○月○日 ひなまつりにちなんで、テレビ番組で仕入れた簡単な「いちご大福」を作る。
こうしたものづくりは子どもたちの反応で悲惨なことにもなりかねないが、ここのとこ
ろ何とか集中度を保っている。ここではいかに子どもの興味をつなげるかがポイントな
ので、ものづくりの醍醐味とか、手作りの味とか、技を磨くとかいったねらいはお預け
にしておく。
 教科の学習も課題は山ほどあるが、それをこなすのはここの目的ではない。とりあえ
ず学習の習慣を身につけさせ、集中して課題に取り組んでいればそれでよしとすること
が多い。何とか部分的にでも落ち着いて学習している場面が出てきたのが救われる。
○月○日 ここの子は恵まれないが、何が恵まれていないかと言えば支えてくれる人の
存在だ。学校や寮生活の間はいい。少なくとも身近な大人たちがいる。しかし、いった
ん世間に出てしまえば、意志の弱い子も多く、誘惑に負けたりつまらない事件を起こし
たと聞くときもある。

 そんな将来を考えると、この施設の中で何を学ばせるか柱ははっきりしてくる。それ
は自分自身のことを好きになって自信を持つことであり、人を信頼できる存在としてし
っかり認識することである。頼るときには頼っていいんだと分からせたいと思う。彼ら
のそれまでの体験では、つらい思いやひどい仕打ちの中で、自分なんかどうだっていい
とか、他人なんか信じられないと思わせられてきている。そんな気持ちを抱いたまま施
設に預けられた子どもたちがそう簡単に変わるはずがない。しかし、毎日のやりとりの
中で、ほんの少しずつだがその子らしいやわらかな表情、真剣なまなざし、そっと寄り
添ってくるしぐさなど、あれ変わったなと思えるときがある。それが半年の時もあれば
数年経ってからのときもあり、それこそまちまちだが、少なくとも変わらない子はいな
い。何がきっかけで変化したかは分からないが、これからも子どもたちにとっていいこ
とだと思う試みを繰り返していくしかないだろう。その中にきっと答えがあるはずだか
ら。
○月○日 学級増の要望が通り、ささやかに教室の手直しもでき、新しいスタッフでの
スタートとなるはずが、始業式当日まで担任が決まらないまま新年度に突入してしまっ
た。つまり学級増の手続きはしたが、肝心の児童数がそろわず、結局教員が一名浮いて
しまう事になったのだ。この間、管理職と教育委員会レベルでどのような駆け引きがあ
ったか定かではないが、結論は加配教員ということでそのまま据え置きになった。いず
れにしても毎年のように繰り返すこの不安定さは何とかならないか。
○月○日 今年は昨年までとはかなりいろんな面でちがう顔が見られる。張り切って下
級生の世話やトラブルの仲裁に入ろうとする子どもたち。しかし、いかんせん急に力で
押さえようとするので、よけいにもめることもある。そんな子どもたちのやり方を見て
いると、かつての自分を見ているようだ。子どもたちの体験から、争いの原因を冷静に
振り返り相手の気持ちになって考えなさいというのは、今は酷な注文かもしれない。そ
れでもひとつひとつの出来事から、人間関係のあり方を学んでいくのもこの施設の大事
な仕事だ。
○月○日 同僚のひとりがやめてしまった。子どもとのトラブルで体調がすぐれないた
めだ。そもそも一人少ない人数で始まった今年の状況こそ問題で、前とは違い児童数は
そろったのに、調査段階の学級数が少なかったので、教員も減らされたままスタートし
てしまったのだ。ひとりでも大人の手が足らない時どういう状況になるか、現場の実態
がまったく届いていないことを痛感する。制度不備のつけを現場だけが背負うのはどう
にも合点が行かない。
○月○日 久々に教室に砂糖がばらまかれる。そして、つかみ合いが始まる。数年前は
日常茶飯事だったが、最近はここまでのことはなかった。当事者を押さえている間にこ
ぼれた砂糖に群がる悲しい子どもたち。予定したお菓子作りの授業を中止してしまう手
もあったが、自分たちはどうしたらいいか考えさせてみた。ふだんは一方的にしゃべる
子が多いが、いざとなると自分の意見や気持ちをうまく表現できず、物や下級生への暴
力になる。しかし、どんなひどい状況のなかでも、切れた行動を押さえながら少しずつ
言葉を引き出していくと不思議に落ち着いてくる。言葉と気持ちのコントロールが結び
つくわけだが、それまでじっくりと自分のことを聞いてもらった体験が少ないこともこ
うした態度から察することができる。
○月○日 ここにきて子どもたちの行動を把握しきれず、目の届かないところでの「事
件」が頻発している。いずれも性的なからみで、日常の幼稚な行動からは想像しがたい
が、内面に巣くっているものは、大人の想像をはるかに超えたものがあるようだ。  

 しかし、彼らの求めているものが単純に快楽だとは思えない。寂しさや満たされない
ことの裏返しかもしれない。ではこちらとしてはどうすればいいのか。やはり今まで通
り、子どもとの信頼関係を作っていくしかない。どの子の言うことも聞いてあげている
よというメッセージを送るしかないと思う。
○月○日 放課後、文字読解の個人指導を続けている。複数の学年がまたがるクラスの
中では子どもの実態に合わせた時間がなかなか取れない。特別支援教育の進め方のひと
つに個別の指導計画のもとに、学習形態も子どもの実態に合わせ、いろいろな場を提供
することになっている。しかし、ひとりでも大人の手がほしいこの施設では、子どもた
ちを寮に帰してからしか時間が取れない。子どもたちは毎週の治療担当のセラピーを何
より楽しみにしているが、学校でも学習と言う名を借りたセラピーの時間になっている
のかもしれない。

おわりに  

 この施設の子はほとんど児童相談所のケースとして扱われているが、低年齢から家庭
の問題で来る子が増えてきたのも最近の傾向だ。それだけ子育てにつまずき、悩む親が
増えているのかもしれない。ここではよく「育て直し」ということが言われるが、乳幼
児期に十分な愛情を得られないまま成長して来た子には、とりもどさなければならない
ものは限りない。特につらい体験もしているので、むしろ退行することもある。それで
も環境が安定して来た時、子どもたちは施設を出て行く。つまり子ども自身が自分で選
んでいくのだ。それまでのほろ苦いやりとりを思い出しつつ、心から拍手を送りたい。

 よく児童相談所の介入遅れや親子分離の判断の甘さが指摘されるが、ここの子たちを
見ていると、親と暮らしたいと言う気持ちは何より強い。その気持ちを長く保証するた
めにも、むしろ施設を出た後の家庭や子どもたちをフォローしていく役割が求められる
と思う。

 学校では教師の力量も確かに問われるが、とてもひとりで背負いきれるものではない。
発達障害とまでは行かなくても似た側面を示す子どもたちの歪みの分析は専門家でさえ
難しいと言う。そうした深く大きな問題を抱えた子どもたち故、多くの大人が知恵を出
し合い、ネットワークを組みできればその後の子どものライフワークまで見据えたアド
バイスをしていける仕組みが欲しい。

(こころの科学 2007年9月 「わたしたちの教育再生会議」より 日本評論社発行)