特別支援学級の中でのものづくり 2010.5.30 ものづくり講演より
○はじまりのはじまり これまで五つの小学校で「特別支援学級」の担任をしてきた。スタートは埼玉県の
「ことばの教室」と言う通級指導教室。今でこそよく聞かれるシステムだが、当時はまだ珍しい形態の学級
だった。四階の小さな一部屋で、代わりがわる訪れる子どもたちとマンツーマンの言語指導の時間を過ごし
た。新卒で未経験の仕事だったので、言語障害の勉強をしながらの同時進行。むしろ親御さんにいろいろ教
えてもらうことが多かった。
このとき学んだのは聞き上手になること。自分の意見はできるだけ挟まず、相手の言いたいことを存分に
言わしてあげる、実際には未経験故意見の出しようもなかったのですが、その姿勢がカウンセリングには大
切なポイントだと今思います。けっこうそれだけで本人の中で解決していることもあるようです。
言語指導=ことばの指導については支援学級の中でその後も大事にしていることのひとつ。考えても見て
ください。泣くだけで何も言えない赤ちゃんが1.2年経つといつのまにかしゃべり出しています。このメカ
ニズムは本当に驚異です。そしてそれが解明できれば、ハンディを持つ子の指導にも相当役立ちます。当時
からそんなことを考えていました。
さて、転機は難聴のお子さんの指導。硬い表情のままなかなかほぐれず、まず単純になかよくなろうと、
とにかく遊びの時間に転換してしまった。この子は難聴が発見されると同時に乳幼児から聴能訓練や発声練
習など指導を受けてきていたが、肝心のそのときそのとき周りの子どもたちがやっている遊びを経験してこ
なかったそうだ。砂場やどろんこで遊ぶより、訓練が優先されていたわけです。親御さんとしてはまずはハ
ンディの克服が第一で、たぶんそれだけでいっぱいだったと想像されますが、子ども自身の成長にとっては
幼少期に体を充分に使った「遊び」の体験は不可欠だったのではないでしょうか。 とにもかくにもトラン
プの神経衰弱やオセロなどのゲーム、簡単なパズルなどをやって過ごす時間を多くしたら、やっと笑顔が見
られるようになってきた。親は勉強がついていけるような指導を望んでいたが、子どもの表情がだんだん豊
かになることで理解してくれるようになった。もうひとつこの子の通常のクラスでの友だちづくりも大きな
課題。遊びの経験が少なく、さらに難聴と言うハンディを持っているこの子がすんなり仲間に入っていくに
は、友だちの助けが必要になる。そんな雰囲気づくりの助けになればとこのクラスの理科や社会の授業を引
き受けてしまったのは若さ故の冒険だったかもしれない。 専門の言語教育さえ勉強しながらの仕事だった
のに、免許もない(当時小学校免許は持っていなかった)理科や社会を引き受けたのは、理科では教科書を離
れた仮説実験授業の授業書、社会では大学時代聞きかじった問題解決学習の指導プランが手元にあり、子ど
もたちに試すチャンスだったこと。今の地に比べ多少管理が緩やかな埼玉県であったことも幸いでした。
さてちょうどこの頃小黒三郎さんデザインの組み木パズルが新聞紙上に発表され運命的な出会いになる。
電動糸のこで分厚い板を切り抜けば、たくさんの動物をかたどった組み木が出来上がる。この組み木との出
会いが自分のおもちゃづくりの方向を決めてしまった。
○ 出会い その時その後の私の人生を決めた出会いが三人あり、そのひとりが小黒三郎さん。その組み木に
すぐ興味を持ってくれた人が同僚の三郎さん。同じ学校で障害児のクラスを担任されており、すでにベテラ
ン。それでもその頃から自閉症と言われる子どもたちが加わりそれまでのやり方でと通用しないことを痛感
され、私も通級指導の中に自閉症の子どもも引き受けており、いっしょに探っていくことになる。当時「自
閉症」については指導法も原因論も様々で現場は混乱するばかり。そのときお会いできたのが「自閉症」に
ついて当時から冷静な見解をもたれていた佐々木正美さんとの出会い。たまたま通級児童の中に佐々木さん
の指導を受けている子がいたご縁もあり、近くで講演があると三郎さんと駆けつけて聞き入りました。ベテ
ランの三郎さんはそれまでのたくさんの経験に縛られることなく、新しい考えもすっと取り入れるそのセン
スのスマートさにこの仕事の本筋を見た気がしました。この三人がその後の仕事の支えになっています。
○いよいよ実践のはじまり さて場所が移り、「ことばの教室」の後はいわゆる「特別支援学級」の担
任になる。当時は特殊学級、障害児学級と呼ばれ、その位置づけも学校によって様々。ただ、私の場合は教
科書や既成のカリキュラムにとらわれないこの教育の「自由さ」にあこがれてこの道を選んでいたので、ど
んな環境にせよ、まず自分のスタイルをどう作り上げるかで頭がいっぱいだった。
とりあえず三郎さんのやっていたクラスを参考に、改めて中身のモデルにしたのは東京の八王子養護学校
の実践。「ものづくり」を中心としたその養護学校の実践は、教育雑誌でも取り上げられていたが、実際に
見てそのすごさに感嘆。羊を飼って羊毛を取り、草木で染色して布に織り上げる。本物の牛の乳をしぼって
バターにする。広大な畑での野菜作り等々。小さな学級ではとても真似ができそうもないことも多かったが、
その精神だけでも取り入れようと自分のスタイルづくりが始まった。
そこで「ものづくり」「からだ」「ことば」この三本をクラス作りの柱にした。 ただ単にものを作るので
はなく、できるだけものの原点にかえったものづくりに挑戦すること。現在の衣食住を見回し、大げさに言
えば人が生きるためにいろいろ工夫してきたことを改めて体験してみる計画をした。そのメインはやはり
「食べ物」。
たまたま職場の近くに給食用のパンの工場があり、そこを見学しつつ、パンづくりのコツを教えてもらっ
た。イーストも本物のかたまりをいただき、小麦粉もどっさり、逆にやらざるを得なくなってしまった。そ
こで考えたのは、では世界中のパンを作ろうと当時の人気番組「なるほどザワールド」をもじり「なかよし
ザワールド」(当時のクラスは「なかよし学級」と命名されていた)でひと月ごとにちがうパンを作って世界
一周することにした。例えば、中国では肉まん、インドでナン、イタリアでピザ、フランスでクロワッサン
など。
パンの他には手打ちうどんや豆腐づくり。その後は粉から作ってみようとそばづくりに挑戦する。学校の
花壇では狭いので、地域の一坪農園を借りそばを蒔く。台風にも遭い収穫できたのはわずかだったが、さて
粉作りには石臼がいる。なかなか手に入らずやっと古道具屋で見つけたのは、たぶんコンクリート製で、し
かも取っ手がついていないもの。そこで本で調べ、取っ手もつくり、一応準備は出来、皮付きのそばを入れ
て回すとさらさらと白い粉が。これは未だに鮮明に覚えています。このときはいきなりそば粉だけの十割そ
ばに挑戦したので、ぶちぶちに切れてしまいましたが、味は抜群でした。
この後煮出した大豆も挽いて豆腐にも挑戦。容器がなかったので、ざるのままこしたので、丸い形の、今
で言えば寄せ豆腐ふうでした。
悩んだのは、ヒヨコを育てていたときのこと。たべもののことを始まりから教えるなら命の始まりにも言
及しなくてはと、有精卵を手に入れ、孵卵器で三週間世話をして、やっと孵化に成功。これは感動でしたが,
その後の世話が大変。小さいうちは教室で遊ばせていましたが、だんだん手に負えなくなり、外にニワトリ
小屋づくり。これも廃材を使っていい「ものづくり」の体験になりましたが、さて、大きくなったニワトリ
をどうするか。毎日卵も生んでくれるようになり、取り立てのうまさは知りましたが、校舎の移転もあり、
いつまでもそのままにしておけません。食べ物作りの原点である「命」を取り込むという観点からすれば、
姿を変える試みも必要でした。でも、結局近くの農家の方にもらっていただきました。矛盾は矛盾ですが、
悩んだことで許してもらっています。 「ものづくり」の大きな中身として衣食住の根本に関わる試みをした
いと、まず食べ物づくりからスタート。そして衣に関して機織りの実践に挑戦しました。未経験故、まず自
分自身が体験しました。草木染めに、棒二本を使った原初的な「いざり織り」そして枠織りとある程度経験
した後、クラスで試みたのは大きなマット織り。二畳分くらいの枠を作って、裂き織りの準備。糸は保健室
の古いカーテンを染め直し、草木染めした原毛も紡ぎました。 クラスの柱としては他の二本にも力を入れ
ました。
「からだ」については、体力だけでなく、硬さをほぐす、触れ合う楽しさを味わう体操などをたくさんし
ました。
「ことば」についてはコミュニケーションの道具としての指導はもちろんですが、ことばあそび、ことば
あそびうたで、ことばのリズムそのものを授業も試みました。谷川俊太郎さんから直接教わったこともあり
ました。
こうして最初の支援学級でほとんど一通りのことを試した結果になります。
しかし、もうひとつのエポックがありました。それは「生き物」との出会い。そしてそれが自分のオリジ
ナル作品創作につながり、その後新しい試みにつながります。
最初の出会いはキジバト。巣から落ちたひなをある子が見つけ、なぜか私のクラスへ。鳩のえさのやり方
を他の児童に教わりながら、巣立つまでの数週間、鳩との生活が始まりました。全校の子どもたちの前で飛
び立って行ったときは、この学級の思いがけない役割を感じたものでした。
○ 継続こそ力なり さて、場所や子どもが変わっても、この三本の柱が自分のクラスの中心でした。子ど
もたちの状況は当然ちがうので、そのままの形でできるわけではないのですが、中身によってはさらに充実
してきた気がします。
そして、何とつぎの職場では、いきなり生き物との出会いから始まりました。今度は子猫です。教室でネ
コを飼うなんて許されるはずがないのに、ネコ好きな校長のおかけで、難なくクリア。それからほぼ一年間
今度はネコとの暮らしがやってきます。休み時間にはうわさを嗅ぎつけた子どもたちの長蛇の列。動物の力
はすごいですね。クラスの子が順番に抱かせると言う、これも交流の一ケースといえるのか、一気にクラス
の存在感が高まった年でした。
ここでの十年間が、たぶん自分の作品づくりとクラス運営、そして同時に始めた「おもちゃのひろば」の
三つがいちばんうまくからみあったひとときでした。子どもたちは毎年卒業入学を繰り返し、その年で雰囲
気はちがいましたが、その三つはいつもからみあっていました。 象徴的なのは、最初の学芸会。そのとき、
三人の子どもたちと何を演じるか迷っていた時、思いついたのが「三匹のくま」の話。組み木からもう少し
発展した形の作品ができました。この作品で遊ばせながら、本番の学芸会もハラハラのうちに終了。この作
品は「ひろば」でも人気の作品のひとつになりました。
○ おもちゃのひろば その当時自宅ではじめた「おもちゃのひろば」も今年で20年が経ちました。きっ
かけはたまたまアパートの隣の部屋が空いたこと。前々から木のおもちゃを中心にしたおもちゃ図書館を作
りたかったので、すぐに実行。毎月一回,絵本とおもちゃ紹介の日が始まりました。
クラスの子が野外合宿の前には、そのひろばにお泊まりさせ予行練習。卒業前にはデイキャンプ風に茶話
会。とクラスとひろばをつなげた試みをしました。クラスでやっているみそづくりを毎月のひろばで作った
こともあります。
クラスの柱は相変わらず例の三本を中心に展開していましたが、際立っていたのはこのクラスの試みに関
心を持つ子どもたちがひっきりなしに訪れること。食べ物づくりの真っ最中の休み時間には難しい作業のお
手伝いをしてくれたり、作品展の前に糸のこ工作をすれば、自分たちもやりたがり、ミニ工作教室になった
り、交流以上の交流が実現していました。クラスの子がふたりだけの年には、劇団員を募集し学芸会のお手
伝いをしてくれた後は、その子たちをモデルに「遊園地シリーズ」が完成。
そのときの子どもたちの触れ合いを見ていると、確かにクラスの子の世話をしてあげようとしているので
すが、本当に楽しそうでした。時にはパンツの履き替えまで手伝ってくります。逆に世話をさせてもらって
いますと見えることもありました。
そして、お話シリーズもどんどん増えてきました。クラスの子に受けたのは「おおきなかぶ」マーちゃん
のお気に入りでした。
○オリジナル作品の広がり その後もお話シリーズを作っていますが、どれもクラスのマーちゃんのお絵描
きがベースになっています。自閉症の彼女は何よりお話のお絵描きが大好き。教室の大きなホワイトボード
にストーリーの一場面を書いては消してすぐ次の場面へ。こちらはカメラに収めるのに必死でした。彼女の
好みか「みにくいあひるのこ」や「おやゆびひめ」などアンデルセン原作のものが中心でした。
ものづくりの方もジャガイモ栽培、みそ、梅干しづくり、パン、ケーキ、クッキー、そして機織りと柱は
続きます。そのときの子どもたちの希望も取り入れ、メニューもふくらんできました。
この頃もうひとつ、子どもからヒントをもらった作品として「合板」の生き物シリーズがある。動物から
恐竜、鳥、くじら、魚類とほとんどの生き物シリーズにつながる作品がここで生まれてくる。その中から、
子どもとの工作教室に紹介する作品もできてきた。
さて、こういう試みはどこでも必要だしどこでも通じると思っていた考えが一挙にさらされることになっ
たのは次の職場。
○「くすのき学園」での体験 教育内容以前の問題で足下をすくわれ、呆然とした毎日。情短施設という
まったくはじめての場所で、これまでの積み上げがいっきょに崩れた感がありました。 まずは子どもたち
との関係づくり。ものを投げ、手当り次第に蹴り続けるその子のことば(にならないことば)を聞いてあげる
こと。
彼らの満たされない部分はとても補いきれないが、そばにいる大人のひとりとして何ができるか自問自答。
そして、ようやく子どもたちとの関係が少しできあがった頃、自分の特技を生かし、「誕生日プレゼント」
づくりが始まる。親の代わりはとてもできないが、そばにいる大人として,君の誕生を祝いますというメッ
セージをこめて。それも10年間続ける。
ただ渡すだけでなく、彼らにもいろいろな体験が必要なことを痛感。すぐ自立を求められている子も多く、
すぐ使える技術を教えなくてはと思うが、調理実習をすれば砂糖や醤油をドバトバ使う彼らには補うものが
多すぎた。
わずかでもと、図工やクラブの時間での糸のこ工作も試みるが、ちょっとでもうまくいかないとすぐ投げ
出してしまう様子から、とにかく手伝ってもいいので成功体験を優先させるようにした。学園では寮とも共
同で楽しい体験や行事を組んだ。潮干狩りに流しソーメン、バーベキューをやったり、やきいもで遊んだ。
彼らのチャレンジしていく世界は人生そのもの、親元へもどるか、離れるか、10代そこそこで自ら決断し
ていく立場に立たされる。そんな彼らの支えのひとつになればと微力を感じながらの十年だった。
○これから さて、現在担任している特別支援学級で、これまでの試みがさらに問い直されている。児童個
々のニーズに合わせた指導が求められ、親の希望も学習支援をしてほしいという傾向が強い。これまでのよ
うに一日かけてパンづくりに取り組んだり、石臼をごろごろまわして粉から食材を作ったりするような試み
は、あまり前面に出せなくなっている。
私のクラスも「読み書き計算」を中心とした時間が増えている。しかし、ともすると学習のための学習に
なり、そもそも発達障害があって苦手なことがあるためこのクラスに来ているのに、さらに苦手なことをや
らされたのでは、本末転倒もいいところ。
そこで、学習の時間は、個々の児童の課題を整理し、やさしいものからやや難しいもの、援助したらでき
るもの、手指を使って操作するものと、多岐にわたるものを用意して、じっくり取り組めるように持ってい
くことを目標にしている。
そして、学期に何回かは、これまでのように時間をかけた「ものづくり」の時間を取り入れている。
また、体験を充実させるためにも、本物体験ということで、うどん屋さんを呼んで手打ちきしめんを教え
てもらったり、豆腐屋さんから手ほどきを受けたり、すぐ役立つわけではないが、心に残る体験をさせたい
と思っている。
これまでは、何でも自分で準備して、生半可な知識で試みたことも多かったが、いろいろな人の知恵や力
を借りればいいと、気楽に考えるようになる。
ものづくりのよさは、持てる力はちがっても、いろいろな場面があり、その子の力に応じていろいろ設定
できること。結果的に出来上がればよし。その過程でどこかに参加できればよし。その幅広さにあると思う。